読書感想文「まいまいつぶろ」村木 嵐 (著)

 ダイバーシティインクルージョン。いや、エンパワーメントか。
 障害を持った者への罵りを、時代小説という舞台を借りて日の当たる場所へ曝け出してみせた。実は、そうした者の誰もが好き好んで腐そうとしているわけでは無い。自分の身の振り方を案じて「使い物にならぬ」、「役に立たぬ」と攻撃するのだ。それほどまでに、人は弱い。
 己を消して身を尽くした結果、かえって気持ち悪がられて疎まれて受けてしまう攻撃とは、理不尽さを堪える聖職者か敬虔な信者に対する卑劣さそのものである。
 そうした「尽くす」態度で表されるのは、ドン引きされてしまってもおかしくない「美しい」関係のファンタジーであり、あえて「美しさ」の箱に入れてでも、機が熟すことを待つ、急いて結論を求めない、そうした時間を掛けて待つということが判断する際には大事でもあるのだ、と描きたかったということなのだろう。それとともに豊穣な内面は誰もが持っているということもだ。
 「手妻」を使うような者の登場は、世の中を変えてしまうこともある。そのとき、手妻遣いは己を律することを心せよ、ということでもある。


読書感想文「なぜ、おかしの名前はパピプペポが多いのか? 言語学者、小学生の質問に本気で答える」川原 繁人 (著)

 言語学最前線である。
 言葉は変化するとはよく言われるし、実際、変化が起こるのは、発する言葉の伝達速度アップと効率化の欲求の表れであったといえそうだ。社会集団が安定化し、閉じた関係性の中で意思や意味を伝えるようになると、省略と省エネが起きる。「最悪(でも)、言わんでもわかるやろ」となる。何でそうなるか。面倒だからである。言語化は頭を使うし、意図が伝わったかを確認するには「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ」るのである。つまるところ、言語よりも動画・映像で「わかる」のであれば、言葉は省かれる。
 明治期に方言が排他的な扱いを受けたのは、そもそも出身の違う新政府高官同士のやり取りが不便だったからだろうし、昭和の高度成長期にNHKアナウンサーの言葉遣いに注目が集まったのは全国から集まった若者が都会での生活で言葉に苦労したことがいえるだろう。
 翻って、現在も社会の価値観の多様化と国際化で、「言って聞かせて」に一層、重要になることだろう。概念と意味も伝える必要が出てくるからだ。
 また、ChatGPTの出現は、実に有益な「もっともらしさ」のある知見を与えてくれる。世の中、結構、それで十分だったりするので、満足できちゃったりする時代にあって、初等教育から学ぶのが「こくご」でいいのか?「ことば」なのではないか?という疑問も湧いてくる。
 この本の中で質問する小学生と一緒に楽しい時間になるはずだ。
 そうそう、漢字という「言語といわば独立に、文字が存在する」との橋爪大三郎の指摘は刺激的だった。


読書感想文「化学の授業をはじめます。」ボニー・ガルマス (著), 鈴木 美朋 (翻訳)

 とびきりハードで不寛容で未成熟な若くリベラルなアメリカでのおとぎ話だ。
 女はいつも戦っている。負け戦であってもだ。だから、ページをめくるのは重くつらい。従順で健気で素直な「女の子」であることを当然に「定形」として求め・求められるという社会規範にボロボロになりながらも立ち向かうリケジョが主人公だからだ。規範からはみ出てしまうと、お転婆、じゃじゃ馬、さらには阿婆擦れと呼ばれてしまう。定形以外の個性は認められない。のび太を含め男子はそれぞれ個性ある3人なのに、女子はしずちゃん一人に典型として集約されている。クレヨンしんちゃんのノノちゃんと比べてみるとその異常さが際立つ。
 ケミストリーとは何か。揺るがしようの無い原理原則であり、モノゴトの理屈である。そして、物性が移ろうことを説明可能にし、明らかにしようとする一連の行為である。だからこそ、主人公は呼びかける「化学とは変化である」。理不尽さに服従するのではなく、化学を追うこととは、立ち向かって進むということであり、すなわち「勇気が変化の根っこになる」と説くのだ。
 時代は遅々としていてもどかしく、そう簡単には進まないかもしれない。それでも前進するのだ。キャルヴィンを巡る旅のように。


読書感想文「木挽町のあだ討ち」永井 紗耶子 (著)

 江戸の名手である。
 とくに町人、悪所を書かせたとき、この人の右に出る者は何人いるだろうか。まるで、暖簾の向こうで見てきたようまちの風情を描く。たいした筆力だ。ただただ恐れ入る。
 大団円を迎えるまで、地味なシーンに時間を掛ける。それには理由があるし、そこがいい。何かが起こった後の話しなので、基本、何も起こらない。こうだったああだったということになる。でも、前に進むことだけが今を生きるということなのだろうか。振り返りを続けることでかえって今が明瞭になることもあるのではないか。そうして見えてくる今とは、なぜ、こうした今があるのか、という理解が進んだ今であり、「腑に落ちる今」を手にいれるということだ。
 アイデアの勝利、発想がすべてと言われるかも知れない。しかし、読者として、ジリジリとした時間を江戸の風の中て過ごさせてもらったことに感謝したいし、そうして読者を信じて筆を進めた胆力を讃えずにはいられない。
 全六幕の章立てだ。六夜連続の講談ものとしてかけてみる噺家はいないかね。


読書感想文「成瀬は信じた道をいく」宮島 未奈 (著)

 人格の形成とはいつ成されるのだろうか。
 持って生まれた性格や才能、能力が揃い「その人」らしさが形づくられ、他からもそう認識されるのはいつなんだろうか。何を言いたいのかと言えば、続刊であるこの本にもおいても、成瀬あかりはあいも変わらず天然・自然由来の成瀬あかりであった。
 成長し大学生になったが、大人びたり世間擦れしたりせず、無欲で無垢の聖性を帯びたまま、かえって行動半径が広がった成瀬あかりが際立っている。そして、今回、両親が明かされる。気になっていた読者も多いはずだ。あの成瀬の親とはいったい?と好奇心も高まっていたのだ。しかし、どうだ。「この親にしてこの子あり」も、「この子ならばこの親」の要素は全くない。父も母もフツーの人だし、世間のリミッターの内側で暮らしている人だ。
 子どもとは、授かりものである。天才で能力者ぶりを発揮し出したとき、親は自分がどうこうというよりも、神や天から持って生まれたものとして自分の子どもを見つめるしかない。預かっている、という感覚だ。
 そして僕らもヒヤヒヤしながら成瀬を見る。予測不能な側の一員として。


読書感想文「2020年代のまちづくり: 震災復興から地方創生へ、オリンピックからアフターコロナへ」 宇野常寛 (編集), 井上岳一 (著), 加藤優一 (著), & 18 その他

 なぜ、サブカル批評、現代文化論の宇野は、政治や地域社会を論ずる本を作り続けるのか。
 この本は、2011年の東日本大震災、2020年前後の新型コロナウィルス感染症の社会経済情勢の受け、東京や地方の「まちづくり」を考えたものだ。もっとも、下敷きとして1995年の阪神淡路大震災地下鉄サリン事件があり、さらに言えば、1985年に豊田商事会長刺殺事件、日本航空123便墜落事故、G5のプラザ合意があった。この間、モノを作り、モノを売る商売が変容していった。カタチあるモノを生み出すことや、価値ある商品を送り届けることがどんどん変わっていった。
 その要因の一つは、情報通信革命である。これにより、モノの価値は、すべて比較対照が可能になり、フラット化した。購入時によほど特別な体験を提供できない限り百貨店だろうが量販店だろうが、画面上であろうが、Aという商品はAである。もう一つは、金融である。モノを作り出せたり、コトを起こしたりできる者よりも、金がある者、金を調達できる者が強者であるという関係の優位性が明白になってしまった。札束がモノを言う新自由主義だ。デフレ下にあって、この2つがさらなる物価とりわけ賃金と地価を押し下げることになった。
 この本は、マネーに負けたまちづくりが語られる。地方創生もインバウンドもドーピングでしかなかったと言う。しかし、今、円安、インフレ・物価上昇というトレンドが顕在化する中、ようやく長い長い価値の閉塞が終わりかけている。実は少子高齢化は問題ではなかったし、地方分権制度改革もそのことは手段でも目的でもなかった。この30年、イシューの設定が違っていたのだ。金融と財政の両方をシュリンクさせていたのだ。もっとも財政の緊縮主義は止まっていないのだが。
 モノやサービスの地産比率を上げることだ。世界中から安値で集めた原料・材料や部品をアセンブリをしているだけじゃダメなのだ。その土地、その場所で作られたストーリーの供給するのだ。情報通信の波に溺れずマネーに対抗するのだ。


読書感想文「世界は経営でできている」岩尾 俊兵 (著)

 岩尾は言う「なぜお前は自分自身をマネジメントできないのか」。そればかりではない。「なぜお前たちは、いつまでも手段と目的をとっ散らかっているのか」と呆れているのだ。
 しかしだ。あなたがいま求めているものは、目的ではなく手段ではないのか?と問われ、「そうかも、手段かも」と思ってみたところで、では本来の目的って?深掘りした目的は見つかるの?との疑問が沸いてくるのではないか。んー、酒が飲みたいのは、酔っぱらいたいからなのか?酔って騒ぎたいのか?酔って騒ぐ仲間と一体感を感じたいのか?酔って騒げる仲間との距離感を再確認したいのか?酔って騒げる仲間たちと騒ぐ自分がいられる場所があることを確認して安心したいのか?昼間の嫌なこと、煩わしいことから少しの時間でも距離を置きたいのか?酒を飲んだところで、ひと時の酩酊気分で紛れるのか?酔いから覚めた後、飲まなきゃよかったと後悔することにならないか?後悔するなら、後悔することが予想されるなら、そもそもなぜ酒を飲むのだ?いや、後悔するけど飲みたいって何なのだ?それどころか、飲んでしまった後、もう酒は止めると口にするのは何回目なのだ?ところで、酒は飲みたいのか?飲酒は経営でできているのか。アレ?えーっと、酒は手段だったっけ。
 明石家さんまが「幸せって 何だっけ 何だっけ~♪」と言ってからもうすぐ40年になる。この問いに答えを出せないまま、日本人は時間を過ごした。その程度に僕らは凡百である。誰もが自分の人生をマネジメントできないのは、目的を明確化できるほど明晰ではなく、自己を顧みて合目的的に行動できることほど理性的ではないからだ。それほどに煩悩に支配されているし、強烈な意志を持ち得ていないのだ。
 目移りするように、アレも食いたいコレも食いたいとそのときの食欲のまま食うのではなく、本当に美味いものを不自由なく食いたいときに食えるように、金を稼ぎ禁欲的に日々を過ごすことなのだ。それが正しさだ。ホントの目的?究極の目的?この問いの重さに耐えられるだろうか。正しさに窒息したりしないだろうか。