読書感想文「選択の科学」 シーナ・アイエンガー (著)

 自由と損得の話である。
 人は,「選びたい」のだ。自分の意思や気分,欲求によって,選択したいのだ。そして,選べることそのものに自由を感じるのだ。わーい,コッチにするー。子どもか。
 その一方で,人は迷う。どーしよー。コッチもいいけどー,でもなー,アッチもー。早くしなさい。どっちがイイの!もう,行っちゃうわよ。置いてくわよ!じゅあ,イイ!えっ?あんた,欲しいって言ってたじゃない?どーすんの。もう,イイの!イイって,あんた,わざわざ来たんじゃない,決めなさいよ。だけど,イイの。もう。えーん。である。
 どちらも欲しくても,コレである。選択肢が多過ぎても,ましてどちらも選んでもネガティブな結果とならざるを得ない選択であれば,なおさらに選べない。選ぶことを,あれだけ希求していたはずなのに。
 専門家への助言や相談,リコメンドが重要である。そのために,専門家として選ばせる側の表現は丁寧であらねばならない。そして,自分自身の直感と熟考による判断と,その判断を受け入れる覚悟が最良の選択となることを我々は,この一冊を通じて知るのだ。


選択の科学

選択の科学

読書感想文「世間とズレちゃうのはしょうがない」養老 孟司 (著), 伊集院 光 (著)

 感覚派の養老先生と理論派の伊集院の対談である。
 二人に共通するのは,「嫌なことはしない」である。ただ,実家が太いこともあって,養老先生は好きな方を選び,嘘くさいことに疑問を呈してきた。多くの弟子を残し,本質を突く変わらぬ言動は重宝されることとなった。
 一方,落語の世界からスタートし,話芸を舞台からラジオやテレビの世界へと場を移し,地位を築いた伊集院光。「この芸を極める」,「大看板になる」,「冠番組を持つ」という競争の大渋滞を避け,子どもの頃から自分が通れる道を探してきたことを続け,いまのポジションについた。
 いま,養老先生や伊集院に憧れる人も多いではないか。蕩蕩とした佇まいや,何かの渦中にいずに世間を眺めているさまに,である。あえて言っておこう。彼らは意識して,そちらに行ったのではない。もともと,そういう人だったのだ。いま,憧れる人が多い分,彼らの地位への道は渋滞し,競争が激しくなっているぞ。


読書感想文「喬太郎のいる場所 柳家喬太郎写真集」橘 蓮二 (著)

 ただの喬太郎ファンブックではない。のちに貴重な柳家喬太郎自身の証言としての同時代史料となるだろう。
 「古典落語をやるときには,古典落語をやるんだからこうできゃいけねえ,みたいなものがお客さんにもあるし,僕らの側にもあったりするわけですよね。(略)その反面,現代をしゃべらなきゃいけないみたいな変なプレッシャー,まあ談志師匠的な,「いかに現代と格闘して生きているか」ってことも言わなきゃいけねえのかなって。談志師匠には,僕もかなり影響をうけていますけれど」。ここまで,素直に談志に影響を受けた,とカミングアウトした喬太郎を知らない。「伝統を現代に」や「江戸の風」の談志のセリフを屈託なく口にする。
 そうなのだ。意識しないはずがない。「落語とは?」に,いちいち答えを出してきたのが,談志である。同じ時代に同じ生業の落語家,ましてトップランナーの一人である喬太郎が影響を受けていないはずがない。
 喬太郎は,「落語という芸能」について語る。「落語って,お客さんが熱狂して割れっかえるように入る芸能ではないんだと思うんですね。寄席も360日以上やっているところなので,そんなに毎日入るわけはないですよね」。本人がホールを埋め尽くさせる力量を見せつける一方で,落語を冷めた芸能でもある,と言う。
 つまり,落語という話の構造やオチやサゲを古典の枠の中でどう現代性を担保させるかを格闘し,さらに落語家そのものが身についた技芸という箱であるとして,その箱を通すことでどんな噺も面白くできるのが落語家だとすれば,落語家そのものを見に来るのだと喝破した立川談志。一方,昭和38年生まれで,貧乏と縁なく育ち,テレビそのものが自我の発育と同時にあった,まさにテレビに育てられた最初の世代の子である柳家喬太郎は,「落語という芸能」を愛しながらも,決して,落語の世界の人,落語界の人として自分を置いていない。だから,「落語という芸能」と客観視できる。おそらく,座布団の上の自身を俯瞰して見られるだけではなく,柳家喬太郎そのものも分離させて,客席と舞台上との間の空気を推し量れる特殊能力を持っているのだ。
 剛腕・談春,変幻自在のキング・喬太郎,鉄板の志の輔,軽さの開拓者・昇太,正統派・三三,歌の巧さとスケールの大きさ・市馬,洒脱の兼好,巧者・一の輔,楽しくワクワクな白酒。いま,トップランカーはベラボウな強者揃いの中,孤高の存在なのが喬太郎である。そのヒントは,兼好師がいう「現代の落語家さんにはない”熱くない狂気” がありますね」だ。才能,技術,知識はあったろう。だが,留めようのない狂気と必死にバランスを取っている喬太郎。どうぞ,ナマでご覧あれ。


喬太郎のいる場所 柳家喬太郎写真集

喬太郎のいる場所 柳家喬太郎写真集

  • 作者:橘 蓮二
  • 発売日: 2020/07/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

読書感想文「絵ことば又兵衛」谷津矢車 (著)

 吃る絵師の一代記である。
 又兵衛は常に忸怩たる思いの中にいる。絵は絵では通用しないのだ。売り言葉に買い言葉である。絵の解釈,由緒,謂れのセールストークで,絵の価値を伝え,納得させることが必要である。そのことで絵を商品として流通させる。扇や衣服,乗り物などの道具性のある商品はその機能とともに美術的価値をして,価格となる。純粋な美術品は違う。その美術品として意味や文脈を目利き,いやキュレーターこと道化師が必要とされる。そして,アーティスト自らも山師よろしく価値づける。
 又兵衛は絵師の才を見出されたものの,言葉が滑らかに出せない。筆は動かせても,その絵の魅力を伝えられない。天運が又兵衛を見出したようでいて,一族の謎解きのような人生が種明かしされる。
 言葉にならないことの辛さ。そもそも,認められたのは実力なのか。言葉は便利であるが,言葉が全てでは無い。気持ちはそこにあり,そのグズグズささえも掬い取るように思いを馳せてあげることが大事では無いか。
 言葉の世界は豊穣である。だが,もどかしいアナザーサイドの存在を教えてくれるような一冊である。


絵ことば又兵衛

絵ことば又兵衛

読書感想文「商う狼: 江戸商人 杉本茂十郎」永井 紗耶子 (著)

 すっかり古びてがんじがらめとなった旧癖をあらためる「風雲児」でよいのか。
 茂十郎は理である。理屈である合理である。制度,仕組みを根元から,目的から捉え直す。そして,合目的に整えて見せる。鮮やかである。ゆえに痛快である。才気走る者とは,こうした存在であり,一時代を築く寵児そのものかもしれない。
 だが,茂十郎は次々とメンツを踏みつけ,悪様に扱う必要があっただろうか。三橋会所を立ち上げるまでの殊勝な態度を続けりゃ良かったじゃ無いか。自分の大きさに対して何も潰して回らなゃならない相手ばかりだったろうか。弥三郎だけ立ててりゃいいってもんじゃないだろう。
 整えてみせた江戸の物流と金融を腐らせたのは,葵の御紋のトップ人事の甘さだ。そして,そこでの忖度や欺瞞の数々が薩摩の台頭を許し,幕政は終わりを迎えることとなった。
 放っておくと,金で,いや,金の回り方で人は死ぬ。まさに,今がそうだ。だからこそ,エンジニアリングとして,金を回す存在が必要だ。風雲児でもなく寵児でもなく狼のような存在の。
 金融・経済の専門家に茂十郎の評を聞いて回りたい。


商う狼: 江戸商人 杉本茂十郎

商う狼: 江戸商人 杉本茂十郎

  • 作者:紗耶子, 永井
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

読書感想文「ナショナル ジオグラフィック日本版 2020年11月号」ナショナル ジオグラフィック (編集)

 「まるごと一冊 新型コロナウイルス特別号」だ。
 とりわけ,ジャーナリストのフィリップ・モリスが寄せている原稿が興味深い。「2020年という年は,私たちの生き方と死に方に,想像を絶する変化をもたらした。旅立つ者は独りで逝き,残された者は,独りで悲しむ。葬儀の在り方は見る影もないほど変わった。…新型コロナウイルスにより,死は人類が経験した中で最も孤独な旅となった」。そうなのだ,新聞の死亡告知欄はすっかり,変わった。高齢社会において,当分,安定業種だと思っていた葬儀業界について想う。
 「新型コロナウイルスは,抜目のないウイルスだ。階級やカースト,人種や貧富の差などの社会的格差に長年苦しんできた人々が,特に感染しやすい。また,このウイルスは基礎疾患のある人を狙う」。だからこそ,「人類がこのウイルスや,今後発生するウイルスに勝つためには,世界が今よりも公平で公正な社会の集まりにならなければならないとということだ。ウイルスとの闘いにおいて,人類全体の強さは,私たちの最も弱い部分をどれだけ強くできるかで変わってくるという,明白な真理が改めてはっきりした。人類が全体として生き残れるかどうかは,万人の健康と社会正義の間に直接的な関係があるということを,今以上に深く認識できるかにかかっている。そして社会に根深くはびこる極度の貧困をなくすため,断固とした措置をとる必要がある」。
 私たちの隣人や毎日接する人たちには,低所得だったり,基礎疾患を有する人たちだったり,高齢だったり,エッセンシャル・ワークに従事する人たちだったりと感染し重症化・死亡するリスクの高くなる存在がいる。そうしたさまざまな困難と直面している人たちととともに生きている,この社会なのだ。
 「数」だけが伝わる日々において,感染症という見えなさは,決して,伝わらなさではない。しっかりと社会を見るために,「数」ではない現実をしっかり見ることを今号のナショナルジオグラフィックは教えてくれている。新聞では無く月刊誌だからこそできる仕事をした,と称えたい。


読書感想文「小さくても勝てる - 「砂丘の国」のポジティブ戦略」平井 伸治 (著)

 ダジャレとは,何か。
 オッさんが垂れるダジャレとは,ただただ,前頭葉の制御が困難になり,ポロポロと思いついたものをこぼすものか。違う。場の空気を読み,間隙を縫って,ここぞの場面をキメに行く,そんなダジャレもある。
 コロナ禍でさらに名を売った知事の一人である鳥取県・平井知事の著作である。平井知事のダジャレとは,爪痕を残すための道具である。圧倒的にマイナーな立場であるものの,世間に「鳥取あり」と示さなくはならない立場である。なのでPRには腐心している。マイナーな県の知名度を上げるために摩滅するほどの努力をしている。ダジャレもその一つだ。
 マスコミからコメントを求められる。気の利いた短いフレーズを炎上を恐れることなく放つ。少しでも印象に残るよう,決して聞き流されてしまわぬようPRする。
 「丁寧な説明」が求められる時代である。だが,長々と話した結果,ストンと落ちたか?結果を出すことにこだわる知事は,カネが無いなら,知恵を絞れ,頭を使えといい,今日もダジャレを駆使している。