司馬遼太郎に読む 時代の雰囲気と「日本人の心の二重構造性」


 司馬遼太郎を読んで,少し思うところがあって。

 日本人はどうも,社会を壊してしまうことはいけないことだ,と思っているようなのです。そして,社会を組みあげていくことが正義だと思っているらしい。一つの社会が壊れたら,すぐ新しい社会を組みあげていきましょう,というところがある。新しい社会ができると,立場立場で,非常に不満ではあるけれども,つくることに正義を感じて妥協してしまう。

 司馬遼太郎 集英社文庫「手掘り日本史」P.118

 たとえば鳥羽伏見の戦いの段階で,全国の武士階級には,「薩長を主体とする京都政権をあなたは認めますか?」というアンケートを出したとしたら,九割九分まで「認めない」というところにマルをつけると思うんです。本心はそうなんですね。さらに「京都で天皇を擁している薩長を主体とする新政権が,新しい時代をつくると思いますか?」と言えば,「思います」と答えるでしょう。分裂しているわけです。日本人の心の二重構造性を考えないと,歴史は見にくいのではないでしょうか。
 最後に第三問として,「そこで,あなたはどういう行動をとりますか?」と問えば,○も×もなく,沈黙する。しかし動かざる沈黙ではなく,無言のうちに新しい時代に参加していく。そういうところがあるですね。そういうことがいいわるいはべつとして,時代を進めていく大きなエネルギーになっている。
 司馬遼太郎 集英社文庫「手掘り日本史」p.119


 との認識を持っていないと僕らは,いろいろと見誤る。薩長政権を現在の分権改革に置き換えてみることもできるだろう。


 「『地方にできることは地方に』といって十分な財源移譲も無し地方に事務を委譲することをあなたは認めますか?」というアンケートを出したら,九割九分で認めないとというところにマルをつけると思われる。本心はそう。さらに「地域間格差を伴う自己責任型の自由主義にもとづく改革が,新しい時代をつくると思いますか?」と言えば,「思います」と答える。分裂しているわけだが,日本人の心の二重構造性を考えないと,社会は見にくいのではないか。
 最後に第三問として,「そこで,あなたはどういう行動をとりますか?」と問えば,○も×もなく,沈黙する。しかし動かざる沈黙ではなく,無言のうちに新しい時代に参加していく。


 世間に流される「寄らば大樹」と言ってしまうのは違うのだ。新しい社会をつくる上で,自分を許容し,自分の不節操を許容してきた,ということなのだろう。それよりも新しい時代への参加によりパワーを生み出していくことに意義を見出すのが日本人だ,とそう思っていないといろいろと見誤る。



私の持ってる版とは違うけど,

手掘り日本史 (集英社文庫)

手掘り日本史 (集英社文庫)