「花見がやりたい」と書いて,そういや山口瞳が花見について書いてたっけ,と思い出した。
花見は,午後の二時から五時ぐらいまでで,これも自宅で行なう。私の家には大きな染井吉野が二本,八重桜が二本あって,家の中から桜見物ができるからである。これは四月の第二日曜日と決めている。
山口瞳 「続 礼儀作法入門」p.103
そうか,花見を自宅でか。
こういうリッチも「あり」だよな。桜,植えようかしら。
行楽には弁当を持っていくにかぎる。それも握り飯がいい。また握り飯の中身は梅干しにかぎる。握り飯は,案外なもので中毒することがある。茶店があれば,そこで飲みものやオデン一皿などを注文するといい。ノンビリと梅や桜を見るのはイイ気分である。
山口瞳 「続 礼儀作法入門」p.109〜110
ふむふむ。握り飯ね。つーか,「オデン一皿」というのが,ポイントなのだろうな。「たらふく食うぞ」では,ないのだ。行楽なのだから,準備や後片付けにヘトヘトになりながら,しかも,次から次へと折りや「タッパー」を開け,どう考えても食べきれない量を「目の保養」などと言って,これみよがし,いや,作り手の満足のために用意するというのは,むしろ,「行楽」壊しだ。
イギリス人のピクニックだって,バスケット一つなのだし。
桜見物で,何か殺伐とした感じで大酒を飲むというのはどうかと思われる。また,近ごろ,桜の名所の蕎麦のレストランで,大きなレコードをかけるのがあり,あれは大変に迷惑する。ああいうサービスは困る。
山口瞳 「続 礼儀作法入門」p.110
うん,だから,へべれけになるのが,行楽の目的じゃないから。
私のところでは,元日と花見と月見,つまり,一年に三回人寄せをする。
山口瞳 「続 礼儀作法入門」p.103
なぜそういう人寄せをするかと聞かれると困ってしまうが,それがキマリだからと答えるほかはない。私は,日本人は,古来,そうするものだという固定観念のようなものがある。それが四季のある日本に住むありがたさだと考えている。また,私は,人間が生きるということは,花を見たり月を見たりすることだという考えもある。花を見て,ああいいなと思えばそれでいい。去年の花,一昨年の花を思い出してみるのも趣きがある。そのために,近くに住む人たち,親しい人たちと酒を飲むことになる。
山口瞳 「続 礼儀作法入門」p.104
そう!そのとおり!私は,「花を見て,ああいいな」と思うため(だけ)に,花見に行きたい。
実は,去年は,四月の第二日曜日に花見ができなかった。
(略)
ところが,毎年来てくれる友人の子どもから文句が出たのである。まだ学齢前の男の子であるが,父親に,今年は山口さんのところの花見はどうなったかと喰ってかかったそうだ。私はとても嬉しかった。それで,二十日過ぎに花見を行った。もう葉桜になってしまって,わずかに八重桜が半分ぐらい残っていた。
その子どもは,私の家の花見を覚えていて,それを楽しみにしていたのである。そのとき,私は,キマリということに最も敏感なのは子どもではないかという気がした。そうやって,その子どもの心のなかに私の家の花見の思い出が残って,彼が成長して,自分で花見をするようになることを想像すると,なにか胸が熱くなるような思いがする。
山口瞳 「続 礼儀作法入門」p.104〜105
こういう「キマリ」を,いまの子どもたちは,どのくらい持っているだろうか。季節感というものは,実はこうした「キマリ」がつくっているものなのだと思う。

- 作者: 山口瞳
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