「見える化」という危険


 年配の方にとってワープロ(もっと,ぶっちゃけて言うと「ワード」ね)を使いたいとのニーズが高く,そして実際,そのための操作を習っているという。彼らにしてみると,表計算ソフト(ぶっちゃけて言うと「エクセル」ね)の敷居は高く,収支報告などの資料をつくるために使うような場面はあってもなかなか使わない,とのことだった。もちろん,データベースソフトなど話にもならない。そのかわり,デジカメについては人気が高く「ブログのネタにするんだ」とのことだった。へー,そんなもんかい,と思う。
 ワープロの何がそんなにも彼らを引きつけるのか。印刷媒体に直結した「目に見えるものが全て」という概念のわかり易さ,だからだと私は思う。つまり,ビジブルであること以外に,理解不要なのだ。こうした「見える」「わかりやすい」とは,考えない,理解しようとしない,思考しようとしないことにつながりやしないだろうか。
 ものごとの原因を明らかにするために,プロセスを「見える」ようにして課題解決を図ろうとする「見える化」では,思考と試行錯誤の連続ではあるが,難しいことは抜きにして,てっとり早く見えることの結論を得ようとすることにつながっていやしないか。
 「見える化」の言葉が広く普及することは構わない。しかし,見えていることが全てではないことも広がらないといけない。