GTを読み「文学」とその愛を感じる


 GTカーにかけて,「疾走せよGT」とNAVI誌上で語ったのは武田徹だった。当時,タケチャンマンとさえ呼ばれ,スタッフライターとして編集部に在籍した武田徹がGTと呼んだのは,ゲンイチロー・タカハシ,高橋源一郎だ。
 今日,何気なく手にとった高橋源一郎の著書が頭の中を軽くしてくれた。へぇっと高橋源一郎の意外な効用に少し驚いた。言葉の世界に没入させてくれる。これは,高橋源一郎の展開力だし,そこから持っていくのか!との意外性のある着眼点が心地よいのだ。
 そんな言葉への根源的なこだわりとともに,以下のコミュニケーションについて書かれていたことが興味深く,目に留まった。

 戦後五十年の全ての世代の言葉と行為が日本語の特性の中から導き出される。
 世代の断絶が深まり,僅か数年の差で言葉が通じなくなったという記事が雑誌に載る。
 ほんとうだろうか。
 テレビの画面にサラリーマンが,主婦が,女子高生が,初老の中小企業の経営者が現れる。彼らにリポーターがマイクをつきつける。
 彼らは曖昧な微笑みを浮かべたまま,不安げに視線を彷徨わせ,要領を得ない言葉の断片をとりとめなくしゃべる。
 そのしゃべりかたはあまりによく似ている。彼らは生産に,あるいは消費に,あるいは受験に忙しく,それ以外のことを考えている暇がない。あるいは,それ以外のことを考える必要などないと考えている。
 彼らは仕事や品物に詳しい。株価や流行のことをよく知っている。
 彼らが好きなのは,そういう情報を「うち」の仲間と交換しあうことだ。
 父親は娘の格好や言葉を理解できない。主婦は夫が何をしているかに興味を持たない。そして,娘は生活にあくせくしている両親をバカだと思っている。
 彼らは決して会話を交わさない。
 その小さな「家」の中に一緒に住んでいながら,彼らはまた別々の「うち」に閉じこもっているからだ。
 彼らの言葉はただ「うち」に向っていく。
 だが,それはほんとうは彼らの責任ではないのかもしれない。
 日本語とは「うち」に向ってだけ洗練されてきた言葉だったからだ。


p.213〜214 文学の向こう側1 高橋源一郎「文学なんかこわくない」


 閉鎖性,断絶性は日本語の宿命というのだ。

 では,「あなたが使っているその言葉には致命的な欠陥があるのですよ」ということができるだろうか。
 できはしない。
 なぜなら,あなたがそういっても相手には意味がわからないからだ。
 彼らはいままでも,そういう日本語の中で生き,そういう日本語を使ってなんの不自由もなかったからだ。
 だが,時に彼らも「うち」から出なければならない時がある。
 たとえば,それは,突然テレビカメラの前で意見を求められる時だ。
 そんな時,彼らが例外なく,うろたえ,不安げな表情になるのは,本能的に「うち」向きではない言葉を使わなければならない瞬間に立たされることに気づくからなのである。


p.214〜215 文学の向こう側1 高橋源一郎「文学なんかこわくない」


 閉じている日本語であっても,それを使って意図を繋げなきゃならない。

 それをわたしたちは「公共」の世界と,あるいは世界の「公共性」と呼んでいる。
 そして,文学とは結局のところ,孤立した「個人」を世界の「公共性」へと繋げる最大の武器なのである。
 日本語の特性が「うち」向きであり,「公共」の世界の排除なら,その言葉を使ってわたしたちは「文学」を成立させることができるのだろうか。
 いや,わたしたちは「うち」向きの言葉を使って,どんな「文学」を成立させてきたのだろうか。


p.215 文学の向こう側1 高橋源一郎「文学なんかこわくない」


 繋げるのは「世界」。それは「文学」であると。あぁ,「文学」への愛だなぁ,愛。



文学なんかこわくない (朝日文庫)

文学なんかこわくない (朝日文庫)