と,かえしてくださったので,気を良くして今日は読みかけだった漱石「文芸と道徳」を読んでしまうことにする。
今一つ注意すべきことは,ふつう一般の人間は平生何もことのない時に,たいてい浪漫派でありながら,いざとなると,十人までみな自然主義に変ずるという事実であります。という意味は傍観者である間は,他に対する道義上の要求がずいぶんと高いものなので,ちょっとした紛紜でも過失でも局外から評する場合にはたいへんからい。すなわち,己が彼の地位にいたらこんな失体は演じまいという,己を高く見つもる浪漫的な考えがどこかに潜んでいるのであります。
さて自分がその局に当たってやってみると,かえって自分の見くびった先任者よりもはげしい過失を犯しかねないのだから,その時その場合に臨むと,本来の弱点だらけの自己が遠慮なく露出されて,自然主義でどこまでも押していかなければやりきれないのであります。だから私は,実行者は自然派で,批評者は浪漫派だと申したいくらいに考えています。
「文芸と道徳」 夏目漱石
漱石は,浪漫主義の文学を「読者が倫理的に向上遷善の刺激を受けるのがその特色」,自然主義の文学を「ふつうの人間をただありのままの姿に描くのであるから,道徳に関する方面の行為も疵瑕公出するということは免れない。ただこういうあさましいところのあるのも人間本来の真相だと,自分もうなずき他にも合点させるのを特色」と言っている。これを明治を向えて変わった道徳観のもとに,文学と道徳を語っていく。
それにしても「実行者は自然派で,批評者は浪漫派だ」とは,痛点を突いてくる。いやはや。実践的で,実行主義であろうとすると,人間として,のたうち回り,時にみっともない,情けない,悔しい,情けない,恥ずかしい思いをさらけ出さなくてはならない。まさに自然派であらねばならない。
この「文芸と道徳」は,学生に向けて語った「私の個人主義」(「フューチャリスト宣言」でのid:umedamochioの講演を思い出す)に比べて講演として伸びやかな高らかさは無いものの,文学者として道徳と文学がどう切り結んでいくかについて熱のこもったラストが印象深い。
それにしてもそれにしても,
たとえば今私がここへ立ってむずかしい顔をして,諸君を眼下に見て何か話している最中に何かの拍子で,卑陋なお話しであるが,大きな放屁をするとする。そうすると諸君は笑うだろうか,怒るだろうか。そこが問題なのである。
「文芸と道徳」 夏目漱石
さすが,漱石先生。ふつう,大先生が屁の話するかよ,しかも自分がしたとして〜なんて。できないな。権威,屁ったくれ!である。ますます尊敬。
- 作者: 夏目漱石,三好行雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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