対立を避けず対話を避けず,感情の爆発を避ける


 中島義道には,おそらくカウンセリングが必要だ。
 今日,読んだ中島義道「<対話>のない社会」の最後はこう締めくくられる。

 最後の最後に,一つの(ありうる)誤解に対して答えておく。私は言葉が万能であるなどと一瞬たりとも信じたことはない。われわれが死や救済,愛や憎しみ,信頼や裏切りに直面するとき,言葉は絶望的に無力である。それは,「哲学」が絶望的に無力であることに通じている。このことは,いくらドンな私でも骨の髄まで知っているつもりである。
 だが,だからこそ,私は無力な言葉をさらに無力にはしたくはない。言葉のもつ一抹の「威力」を信じたい。言葉の弱い力を最大限に開花させたい。<対話>という乗り心地の悪い荒馬に乗って行き着くところまで行きたい。そして,その果てに−−ため息とともに−−体全体で言葉の無力を噛みしめたいのである。


p.205 「<対話>のない社会」 中島義道


 この最後に中島が強調する言葉への信用は,この本の冒頭で「私語」と「死語」にあふれる大学の教室での風景での中島のいらだちの根源である。この「言葉」の問題について触れる前に,対話とは何かを拾っておく。

現代日本人は「個人の生きた言葉」を完全に抹殺してしまった。言葉は,個人の身体を脱ぎ捨てた「ぬけがら」のように中空でカラカラと回転しているだけである。
 このことは,この国では対話がほぼ完全に死滅していることにみごとに対応している。本章では,対話とは何かを探ってみよう。
 対話とは,たんにしゃべることではない。じつは,きわめて特殊な言語行為なのである。


p.100 「<対話>のない社会」 中島義道

みずからの生きている現実から離れた客観的な言葉の使用法はまったく<対話>ではない。<対話>とは各個人が自分固有の実感・体験・心情・価値観にもとづいて何ごとかを語ることである。だから,はじめに賛成派,後に反対派に立場を交換することはできないはずなのだ。


p.102 「<対話>のない社会」 中島義道

真理を求めるという共通了解をもった個人と個人とが,対等の立場でただ「言葉」という武器だけを用いて戦うこと,これこそ<対話>なのだ。
 これは,全裸で行われた古代ギリシャの格闘技に似ている。プラトンはしばしば,ソクラテスに「きみは自分が裸にならないで,服を着て観戦しているのはズルイ」と言わせている。身分・地位・知識・年齢等々ありとあらゆる「服」を脱ぎ捨て,全裸になって「言葉」という武器だけを手中にして戦うこと,それが正真正銘の<対話>である。


p.122〜123 「<対話>のない社会」 中島義道


うひゃ!メンドクセェな<対話>。自分の全存在を言葉にのせて真理を求めて戦ってないと対話にはならないのだ。対話中は油断できない,戦いなのだからね。エネルギーも使うから,一日にそう何度もできそうにない。そして,自分と相手との関係は,

<対話>とは他者との対立から生まれるのであるから,対立を消去ないし回避するのではなく「大切にする」こと,ここにスベテの鍵がある。
 だが,他者との対立を大切にするようにと教えても,他者の存在が希薄な社会においては何をしていいかわからない。そうなのだ,本当の鍵は他者の重みをしっかりとらえることなのだ。他者は自分の拡大形態ではないこと,それは自分と異質な存在者であること。よって,他者を理解すること,他者によって理解されることは,本来絶望的に困難であることをしっかり認識すべきなのである。
 われわれ聡明な日本人は,じつはこんなことは頭ではよく了解している。しかし,(とくに公の席では)他者との摩擦がまったくないかのような,みんな心が通じ合っているかのような,つまりあたかも他者がいないかのような態度をごく自然にとるのだ。
 これはみずから信じていないことを語る自己欺瞞である。<対話>はこうした欺瞞的態度の出現とともに消えてゆく。そこに,すべての人が全体を配慮し,自己の痛みを語らず,他者との差異を語らない淀んだ和やかな空気が流れる。この空気の中で,おそろしいことに,各人は自分の考えをもたなくなる。責任を持たなくなるのだ。


p.190〜191 「<対話>のない社会」 中島義道


自分と相手が違うとして,その差異や自己の痛みを言葉にどうのせて伝えていいか,そこが問題なのではないか。「なんか,違う」,「どこかが痛い」と思ったところで,それをどう口にしていいかわからなければ伝えようがないではないか。全裸で競技場に向ったとしてパンチやキックの型,急所の在り処,関節の決め方を知らずして,どうして戦いになろう。
 対話や他者との関係,全体と個人の関係が問題なのだろうか,いや,言葉の問題だ。長くなるが,中島への答えとなろうかと思うので袰岩奈々の著書から引用する。

 幼稚園で友だちとケンカして泣いて帰ってきたときに,「悔しかったね」と周りから言われることで,「ああ,これは悔しさなのか」と,自分のなかのもやもやしていた感情の正体がつかめるようになる。
 もしも,まわりからの反応が「何やってるの! しっかりしなさい」といった反応だけだったら,自分のなかでおこっている不快な感情の正体はわからないまま放置される。それをどうすればなだめられるかもわからず,ただ抑え込み,無視することが繰り返されるようになってしまう。そして,それが高じると感情は「ジャマなもの」「抑えるべきもの」として,子どものなかから締め出されてしまうのだ。
 学校で生徒たちが手を洗おうと洗面台に並んでいるときに,ひとりの子どもが横入りをしてきたとしよう。「横入りをされたら嫌な気分になるでしょう。だから,自分もそういうことをしないようにしようね」といった情緒的体験をベースにした形で,先生が子ども納得させなければならない。これが「快ー不快」をベースにした相手の気持ちへの理解ということだ。
 もしも,ここで先生が「横入りはダメでしょ!」と叱るだけだとしたら,ある行動が○か×かということを示すだけで終わってしまう。「正−誤」の世界に,一足飛びにいってしまうことになる。「お互いの気持ちを分かり合い,気持ちよく存在するためにあるルール」といった部分が抜け落ちてしまう。自分のみならず,お互いの気持ちに無関心なのだから,自然と相手を無視したり自分勝手な行動が目立つようになる。子どもたちは,自分の気持ちをどうコントロールすればいいのか,どうすれば相手に気持ちが伝わるのかがわからない。
 これは,ルールとして「お年寄りには席を譲るべき」だから,電車内で前に立ったおばあちゃんに席を譲るのか,「おばあちゃんがツラそうだな。座ったら楽になるだろうな」という気持ちから席を譲るのか,ということにもあてはまる。自分が「ルール」や「マナー」という観点から行動しているのか,それとも「気持ち」として」行動しているのかに気づいていることが大事なのだ。


p.53〜54 「感じない子どもこころを扱えない大人」 袰岩奈々

「別に」
「わかんない」
 子どもたちは,すぐ口にする。でも,彼らは本当はわかっているのだ。わかっている“その感じ”を話す言葉が見つからない。どういうふうに説明すればいいのかわからない。大人に自分のことを説明していいんだ,ということを知らない。説明しても,大人はわかってくれるはずがない……。だから,子どもはいう。「わかんない」と。
「わかんない」の後ろに隠れた“その感じ”を少しでも子どもが言葉で表現できるように,大人は早急に答えを求めることなく,順序立てた訓練を子どもと一緒に行っていくことが大事だと思う。


p.200〜201 「感じない子どもこころを扱えない大人」 袰岩奈々


 中島は言葉が届かないことにイラつき感情を爆発させる。しかし,そのイラつきの正体が相手そのものではなく,相手が成長の過程で経るべき「気持ちを言葉にのせること」を身につける機会が無かったことだと気づけば,むやみやたらと当たり散らすこともないだろう。むしろ,ロゴスの人として,人をロゴスに導く役割りを果たすことができるだろう。
 それができないでいるようだと,中島は「心を扱えない大人」としてカウンセリングを受ける必要があるように思うのだが,いかがだろう。余計なお世話なのは承知の上だが。



感じない子ども こころを扱えない大人 (集英社新書)

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