「あー,そうかー」と悩みから抜ける感じ


 組織をリードしたり,マネジメントしたりする役割りを担うようになって,かつ,パートやバイトの職制が違う方々と仕事を進めることが条件だったりする職場に置かれていると,ミッションの共有を「同じ釜のメシ」を前提に「わかれよ」と押しつけるわけにはいかず,責任を引き受けたままに「なにをどこまで,どう任せると良いのだ?!」との悩みにずっとつきまとわれた。自分の手の届く範囲ならば,いっこうに構わないのだが,全体のスタッフ数が増え,骨格は見えていながらも,細部の把握が難しくなってくる中で,どう立ち振る舞うとよいのか…。

糸井 社長がやりたいと思って
はじめたわけじゃないんですけどね。
いわゆる「経営」という感覚もないし、
あえていうなら、
ウネウネした知らない生き物に乗っている感じ。
だから、動物の飼育とか、乗馬とか、
そういうものに似ているかもしれない。
なにがやりたいかじゃなくて、
ありようのほうにおもしろみを感じるんです。


ほぼ日刊イトイ新聞 - 適切な大きさの問題さえ生まれれば。第8回 なにを成し遂げるのかではなく、ありようのほうにおもしろみを感じる。


 組織ではなく,プロジェクトやチームを動かすのは,実は好きだ。正確じゃないな。プロジェクトやチームに動いてもらうように動くのが好きだ。全然,悩まない。もしかしたら共有されていないかもしれないターゲットであっても,そのターゲットに向ってドライブしている感じ。イェイ!アクセル・オン!って感じね。
 なので,この糸井さんのセリフは「あー,そうね。それね。それを乗りこなす,いや,乗りこなせないかもしれないけど,ドライブしている感じね」とよくわかる。つるつる滑る路面での運転だとか,オンボロのクルマだとか。ドライブしているそのものが,はずんたり,ドリフトしたり,風にあおられたりしても,それ自体を楽しめる。うほっ!という感じ。そのことを思い出した。
 そっかー!なのだ。そうしたドライブ感と,組織をなにか別なもののように,組織を「組織」という機構として見てしまっていたものだから,どうしても「組織的」であることに重心をおいてしまっていた。もちろん,社会人の集団として当たり前のことはたくさんあるが,そのことと機械的で面倒なモノとして見ることとは違う。それは構成員をどう見るか,に関わるからだ。

で、オレは、幸いというかなんというか、
集団として生きるボディを発見して
それがおもしろくなっちゃったものですから、
ひとりの方向を選ばなかったんですね。


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 私はひとりの方向を選んでみたつもりでいた。だが,そのことに自分で自分に勘違いしていた。実は,ひとりでプロジェクトやチームに動いてもらうことを選択したのに,うっかりしていた。だから,あー,そーかー,なのだ。

もっと、チームでしかできないことを。
チームでなにができるかという可能性と、
自分がなにができるかという可能性は、
ぜんぜん違うものなので、
チームができることを
オレがジャマしないようにしたい
という気持ちはありますね。


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「集団」「チーム」って,何だろうね,と思う。シェアして動く面白さや,ライブ感を知っていて,あらかじめ手の内を明かす面白さを知っているということ,それがむしろ,マネジメントのキモであるし,「リーダー」なるものの幻影に押しつぶされないための方法なのでしょうよ。あー,ここまで自分の言葉として言えるようになるまで,長かったなあ,と思いますよ。

うん、ありようですね。
結果として、なにを成し遂げたいとかいうよりは、
そのプロセスのユニークさ。
誰も知らないような時間の流れ方とか、
そういうのを希求する気持ちというのが、
いつもありますね。


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 ベタだけど,ワクワクすることを共有することで,アレ面白かったよね。また,やりたいよね,と言い合えることに価値を置きたいのだ。ちょっと,「組織」観が変わったと言おうか,はまり込んだ何やらから抜け出たと言おうか。