サッカーは礼によって始め,礼によって終えよ。


 サッカーの自由さ,反権威主義が,野球や武道の恐い指導者のからの押しつけの指導や管理の息苦しさに辟易する子どもたちを引きつけ,魅力的に映って,少年期をサッカープレイヤーとして過ごした過多も多いことだろう。何せ,フィールド上では,高学年も低学年の上下もないんだから敬意も何もあったもんじゃない。
 Jリーグの設立以来,長髪,茶髪のスポーツ選手がいることや,絶えず騒ぐ応援に馴染めない高齢者も未だ多い。だが,問題はここじゃない。ショウマンシップなら長嶋茂雄がいたし,つねに一本勝ちをねらう柔道の美学だって「見せる」ことを意識したものだ。問題は,サッカー,とりわけ南米の「自由」なサッカーをいくら導入したって,サッカー日本代表は強くならないし,小学生の親が子どもにやらせたくなるスポーツにサッカーが選ばれることは,ないためだ。
 サッカー日本代表を強くするためには,他の国のシステムの模倣ではいけない。選手はいくら個性的であってよいが,チームとして表現すべきは「日本」式であることだ。相手チームが嫌がるほどの「日本」式は,日本に敵わないという気にさせる。そのくらいの敬意をもたれる「日本」であるべきなのだ。マリーシアなどとんでもない。日本人ならずるさを否定し,正直にやるべきだ。その変わり,勤勉であるべきだ。試合とは内なる自分の精神の発露であり,面白さを求めてはいない。1−0で勝っているなら,コツコツとタッチラインに蹴り出し,つまらないサッカーをすべきだ。もちろん,審判への抗議などあってはならない。得点を入れた後のパフォーマンスなんてとんでもない。組織人として恥ずべき行為だ。
 母親たちが,子どもにこぞって武道をならわせたがるのは,スポーツとしてではなく,あいさつやお礼を大きな声で言えるようになるからだ。そうした些細なことが,世の中を渡っていく上で,くだらないが重要なTipsであることを知っているからこそ,武道の稽古を羨望のまなざしで母親たちは見つめるのだ。それが日本社会だから。
 国際試合で,日本代表が勝つためには,礼によって始め,礼によって終えるしかない。武人らしく清々しい様を見せつけることだ。そうすることでこそ,サッカー人口を増やすことにもつながる。そうした「好ましい」姿を見せることができるなら,拍手のみの静かなスタンドに年配の夫婦も観戦に来ることだろう(当然,フェイスペインティングなんてものはない)。
 日本サッカーを強くしようと思うなら,である。南米かぶれの騒がしいサッカーが好きな私は,日本のサッカーが弱くとも,日本でサッカーがマイナーであろうとも,いいんじゃないかとは,思うけどね。