歴史学者が言う「今でも国や県がやることはだいたい同じ」とは


 長くなるが,引用する。

長野県は,満州への開拓移民が多かった県でした。長野県の中でも,県庁所在地の長野市周辺や松本市周辺などの地域よりは,南信と呼ばれる県南部に開拓移民を多く出した村が多かったのですね。
 (略)飯田市の周辺で,開拓移民を最も多く送りだしたある村の満州移民の率は,18.9%,つまり,村人五人に一人が満州に送りだされたということになります。飯田市周辺は養蚕がさかんでアメリカ向けの良質な生糸を生産する地域として有名でしたが,世界恐慌による糸価の暴落で農家経済は打撃をこうむりました。そうしたなかで,三〇年代半ばから,養蚕から他の作物への転業がうまくすすんだ村では,移民が少なかったことが検証されています。転業がうまくすすまなかった村というのは平坦な土地が狭く,山がちの地域が多かったのですが,そのような地域では,国や農林省などが一九三八年から推進する,満州分村移民の募集に積極的に応募する,というよりは,応募させられてしまうのですね。
 どのような仕組みかというと,こうです。三二年ぐらいから試験的な移民は始まっていたのですが,初期に移民した人々から,満州が「乳と蜜の流れる」土地であるなどという国家の宣伝はまちがいで,厳寒の生活は日本人に向いていないのだとの実情が村の人々に語られはじめ,移民に応募する人々は三八年ぐらいから減ってしまった。そこで,国や県は,ある村が村ぐるみで満州に移民すれば,これこれの特別助成金,別途助成金を,村の道路整備や産業振興のためにあげますよ,という政策を打ち出します。
 このような仕組みによる移民を分村移民というのですが,助成金をもらわなければ経営が苦しい村々が,県の移民行政を担当する拓務主事などの熱心な誘いにのせられて分村移民に応じ,結果的に引揚げの過程で多くの犠牲者を出していることがわかっている。ただ,とても見識のあった指導者もいて,その例として大下條村の佐々木忠綱村長の名が挙げられます。佐々木村長は,助成金で村人の生命に関わる問題を容易に扱おうとする国や県のやり方を批判し,分村移民に反対しました。このような,先の見通しのきく賢明な人物もいたのです。
 ですから,満州からの引揚げといったとき,我々はすぐに,ソ連軍侵攻の過酷さ,開拓移民に通告することなく撤退した関東軍を批判しがちなのですが,その前に思いださなければならないことは,分村移民をすすめる際に国や県が何をしたかということです。特別助成金や別途助成という金で,分村移民送出を買おうとした施策は,やはり,大きな問題をはらんでいたというべきでしょう。下伊那地域の町村会長をしていた吉川亮夫という人物も見識のあった人で,吉川は,分村移民をめぐる補助金獲得に狂奔する村々の動きを批判し,「補助金をもらうための開拓民の争奪」が行われていると喝破しています。つまり,今でも国や県がやることはだいたい同じですが,これこれの期日までに,何人の分村移民を集められれば,これこれの予算をつけてやる,というそのようなやり方で,村々に競争をさせたわけですね。
 このような事実を知っているか知らないかで,現代社会の見方も,ずいぶん変わってくると思いませんか。


p.393〜397 「それでも,日本人は「戦争」を選んだ」 加藤陽子 著


 「ずいぶん変わってくると思いませんか」と問われた今,ずいぶんと変わりましたよ,と答えたい。助成金がなくて困っている自治体は,かつても多くあったこと。そして,そこに国や県の誘惑が待ち構えていたこと。さらに,そうしたオカミの主導に敢然と立ち向かったリーダーもいたこと,など,決して戦争前の過去が過去と思えなくなる。
 歴史から学ぶべきことは本当に多い。


それでも、日本人は「戦争」を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ