社会とシステムと民主主義


 読み終えた山崎ナオコーラの最新刊は,冒頭,次のように始まる。

 社会とは一体なんであろうか。
 広い宇宙の中の極小の星,地球。その海に浮かぶミニ国家,「日本」。その国の首都,小さな東京につきまとい,豆のような暮らしが続く。この小説の,舞台は狭いアパートである。
(略)
 紙川さんと私は二人とも一九七八年生まれで,経済も文化も盛り上がっていた八〇年代の間は子どもだった。十代を過ごしたのは九〇年代で,それは何もなかった十年だったと言われる。本当に何もなかったのかどうか,ともかくも景気は悪かった。その頃に十代であった我々の世代を,ロストジェネーレーションと命名した人もいた。失われた世代であるところの我々は,大学卒業時に,雇用が底を打ち,就職難を味わった。結果,多くの人が学生生活の後,組織に組込まれない大人になった。


p.3〜4 「この世は二人組ではできあがらない」 山崎ナオコーラ


 「社会とは」。
 この小説は,社会に出る若き主人公が,社会に立ち位置を求めて,男女のあり方に拘泥しながら,前に進む物語なのだが,この冒頭で思いだしたのが,廃刊になったばかりの自動車雑誌の記事の一節だった。長くなるが引用する。

 ハイチは18世紀のフランスの植民地時代,高度な奴隷プランテーション経済が発展し,「カリブ海の真珠」と呼ばれていた。当時はサトウキビとコーヒーの栽培で,フランスの富の4分の1すら産んでいた。
 しかし1804年,黒人革命により独立を果たしてフランス人支配層を処刑して以来,現在に至るまで約200年間社会システムと言えるものが一度も確立されていない。
 革命に功のあった者たちに奴隷農場が分与され,自給自足農業に転換して以来,200年間で数十人現れた独裁者たちは,国から富を吸い上げることのみに専念し,一度も種を植えなかった。公共サービスは皆無に等しく,食うに困った農民たちは日々の燃料として山の木を切り続けた。現在ハイチの森林面積は国土のわずか1%。かつて緑豊かだった南海のパラダイスは,険しい土色の荒れ地になり果てた。国境を隔てた島の東側のドミニカ共和国とは全くの別世界である(ドミニカとて豊かではないが)。
 大地震の被害は甚大だ。しかしそれよりさらに深刻なのは,ハイチにはそこから復興に向けて立ち上がるシステムが存在していないことだ。現在救援活動を仕切っているのは,アメリカを中心とした各国の援助機関で,国は滅亡したに等しい。国が滅亡したというのはつまり,社会システムがほぼ消滅したということである。
 我々日本人は「国」というものに対して,漠然としたイメージしか抱いていない。それは民族であったり腐った政治家たちであったりする。長らく「安全と水はタダ」と思ってきた我々にとって,国とは空気のようなものであり,あえて言えば,邪魔なもの,ウザイもの,税金だけとって何もしてくれないボッタクリ団体みたいなものという部分さえある。
 しかし,実際は違う。日本には様々な社会システムがある。それは市区町村から政府にいたる官僚システムであり,119番すればけたたましいサイレンとともにやってくる消防車等の公共サービスであり,市場経済を回転させているさまざまな法規制である。国とは極論すれば,社会システムのことなのだ。それは決してただでは構築できないし,仮に社会システムがなければ,我々はすべての規制から解放されると同時に,ハイチのような原始状態に戻ることを余儀なくされる。
 我々は漠然と,「国は何もしてくれないし信用できない,自分たちの力で何とかするしかない」と思っている。しかしハイチを見れば,それはとんでもない間違いだということがわかる。国すなわち社会システムがないということは,人々の生活の基盤がないということなのだ。
 さらに言えば,社会システムのあり方で国はいかようにも変わる。それは,同じ民族でありながら天地の差がついている南北朝鮮を見ても明らかだ。優れた社会システムがなければ,個人の優秀さが発揮されることもありえない。実際,ハイチを脱出しアメリカに逃れた人々は多く成功し,故国に仕送りをして破綻した経済をなんとか支えてきた。優れた社会システムさえあれば,努力は実るのだ。優れた人事システムを持った会社と同じように,システムこそが国の命なのだ。
 国を変えるということは,国を支配する腐敗した官僚システムを除去し政治主導にすることではなく,官僚システムを健全にすることだ。システムを除去したらハイチになる。システムは絶対に必要なのだから,無くすのではなく改善しなければならない。


p.36〜37 「『自動車のこれから』は『道路のこれから』でもある。現政権に交通・環境行政に関する長期的ビジョンはあるのか。 長距離=航空機,中距離=鉄道,短距離=自動車」 清水草一 「NAVI」2010年4月号


 ハイチという社会基盤が脆弱な国を地震が襲うと,復興が極めて困難になる。それ故,「国とは極論すれば,社会システムのこと」となる。なので,ここで言われる社会システムとは,サービスを提供し,ルールをはめるシステムのことであり,「国すなわち社会システムがないということは,人々の生活の基盤がないということ」,つまり,ソフト面の基盤を指す。だからこそ「優れた社会システムさえあれば,努力は実るのだ。優れた人事システムを持った会社と同じように,システムこそが国の命」と言う。
 ハイチという社会基盤が脆弱な国を地震が襲うと,復興が極めて困難になる。それ故,「国とは極論すれば,社会システムのこと」となる。なので,ここで言われる社会システムとは,サービスを提供し,ルールをはめるシステムのことであり,「国すなわち社会システムがないということは,人々の生活の基盤がないということ」,つまり,ソフト面の基盤を指す。だからこそ「優れた社会システムさえあれば,努力は実るのだ。優れた人事システムを持った会社と同じように,システムこそが国の命」と言う。
 システムは堅牢であることも必要だが,現実の世界は日々,変化する。それは時間の推移によるものでもあるし,他の社会システム=国との関係が直接に生活に反映するグローバル化にもよる。だからこそ,システムの変更は必要となるし,カイカクと叫ばれ続けた時間は,失われたとされる時間にほぼ等しかったりする。政権交代も起きた。「仕分け」のウケはいい。「悪」の官僚システムに斬り掛かる様を見るのは,決まった筋書きの時代劇を見て,カタルシスを感じることに似ている。しかし,そんな快感は,「米百俵」の科白に踊り,ユーセーミンエイカの心酔したこととどれほど違うのか。ポイントは,「官僚システムを健全にすること」だろう。「あ〜,スッキリした」では,マズイ。
 政治主導とは,国民の代議制を通した民主主義であるのだから,

 憲法ちゅうものは、国民が委託した国家権力に歯止めをかける規定なんですよ。民主制度(democracy)というのは、いかに委託された権力を阻止するかそのバランスの機構でもあるんだが。


朝日新聞社説 憲法記念日に―失われた民意を求めて - finalventの日記


のとおり,国家権力を限定的にさせるためのものであり,「地方主権」なる語もこれに連なる中で理解されなければならない。
 システムはなければならないが,システムはコントローラブルなものでなければならない。それは中央も地方も同じことだ。それが民主主義だ。