今年,読む小説シリーズ:全体主義とは何か。もしくは,男どものバカさ加減についてー「テヘランでロリータを読む」を読んだよ。


 とんでもないスゴい本だ。
 訳者あとがき冒頭の紹介を引用しておこう。

 本書はイラン出身の女性英文学者アーザル・ナフィーシーが,1979年のイスラーム革命から18年間,激動のイランで暮らした経験を英語で綴った文学的回想録の全訳である。


p.477 「テヘランでロリータを読む」 訳者あとがき


欧米で教育を受けたとはいえ,両親ともにイラン人で祖国で生まれた現代イラン人女性が,イスラーム革命後の圧政下において市民の自由が奪われた中,全体主義は彼女が教鞭をとった大学にもおよび,それを嫌った彼女は大学を辞め,自宅でひっそりと西洋文学を読む読書会を開いたーこうしてこの物語が始まる。

 あらゆる可能性が奪われたように思えるときに,針の穴ほどの隙間が大いなる自由となりうるのは驚くべきことではないだろうか。


p.46 「テヘランでロリータを読む」


彼女が自宅での読者会を催すこと,その場で監視や妨害無く文学に浸れるということ,そうした些細なことに自由を見いだしてしまうこと,それこそが全体主義が世を覆うということだ。
 そこでかわされる文学についてのやりとりは,深く,そして文学の力をあらためて感じさせる。

マフシードは目を上げて私を見た。「娘に自分たちと同じようになってほしいと期待する権利もないの? どうして私はハンバートを非難して,ミリュエル・スパークの『ロイタリング・ウィズ・インテント』に出てくる若い女性を非難しないのかしら?彼女が不倫してもいいと言えるのかしら? これは重要な問題だし,自分の人生にあてはめるのはなおさら難しいことね」
(略)
マーナーが付け足して言う。「『ボヴァリー夫人』や『アンナ・カレーニナ』,それからジェイムズの作品もーー正しいことをするか,やりたいことをするかという問題ね」


p.78〜79 「テヘランでロリータを読む」


 彼女や彼女の夫がアメリカ留学時代の元同志が公開裁判にかけられテレビ中継されているのを目にするようになる。

こんなふうになると思った? 彼は答えた。いや,思わなかった。でも考えておくべきだったな。こういう事態を引き起こすのにみんなで手を貸したわけだけど,最初からイスラーム共和国になる運命だったわけじゃなかったからね。ある意味では彼のいうとおりだった。1979年1月16日にシャーが国外脱出してから,2月1日にホメイニーが帰国するまでの短い期間,民族主義者の指導者のひとり,シャープール・バフティヤールが首相になった。バフティヤールは当時の反政府勢力指導者の中で,ことによるともっとも民主的で先見の明のある人物だったが,他の指導者は彼のもとに集まって支援するどころか,彼に敵対し,ホメイニーと手を組んだ。バフティヤールはただちに秘密警察を解体し,政治犯を釈放していた。バフティヤールを拒否し,パフラヴィー王朝の代わりにはるかに反動的で専制的な体制の成立に手を貸してしまったことで,イランの民衆も知的エリートも,よく言って深刻な判断の過ちを示したのである。よく憶えているが,当時,バフティヤールを指示するのはビージャン(内田注:アーザル・ナフィーシーの夫)だけで,私もふくめたその他全員は旧体制の破壊を要求するばかりで,その結果についてはろくに考えていなかった。


p.144 「テヘランでロリータを読む」


「ろくに考えていなかった」のは,当時のイランだけであろうか。僕らも考え抜きに選択をしてはいないだろうか。あぁ,恐ろしい。
 せっかくなので,彼女とその夫についても触れておこう。

 ますます社会と無関係な人間になり,喪失感にさいなまれていた私は,穏やかで幸せそうな夫の様子に,私が女として大学教師として経験していることに一見無関心な態度に憤慨した。だがその反面,私たち全員に安心感をもたらしてくれる彼の存在に依存してもいた。まわりのすべてがくずれてゆくなかで,彼は冷静に仕事に励み,家族のために静かなふつうの生活をつくりだそうとした。元来とても内向的な夫は,もっぱら家族や友人との家庭生活を守ることと仕事に勢力を注いだ。彼は建築工事会社の共同経営者で,同じように仕事熱心な仲間たちを愛していた。彼らの仕事は文化にも政治にも直接の関係はなく,しかも民間の会社だったから,比較的平穏に仕事ができた。優秀な建築家であることや,仕事熱心な民間のエンジニアであることは,体制への脅威とならなかったし,ビージャンは次々に大きなプロジェクトをまかされて興奮していた。エスファハーンの公園,ボルージェルドの工場,ガズヴェーンの大学。自分は創造的な仕事をしている,必要とされていると感じ,さらに,言葉の最良の意味で,国に役立っていると感じていた。国の支配者がだれであれ,僕らは国のために働かなくてはならないというのが彼の持論だった。ところが私ときたら,「ふるさと」,「奉仕」,「国」といった概念をすっかりなくしてしまったいた。


p.234〜235 「テヘランでロリータを読む」


こうした夫と,彼女の教師への復職について話題となる。

私は道徳的義務というものや明確な態度表明などが大好きだった。そこで,ヴェールの着用を強いられる限り二度ともどらないと誓った仕事にもどることの道徳性について容赦なく議論をつづけた。彼は片方の眉を上げて,子供を甘やかすような笑顔を浮かべた。あのねえ,自分がどこに住んでいるのか考えてごらんよ。体制に屈することに良心の呵責を感じるということだけど,このイスラーム共和国では,あの道徳の守護者たちの恩恵をうけなければ,だれだって一杯の水も飲めないんだよ。教師の仕事が好きならばつづければいい。存分に好きなことをして,事実を受け入れればいい。僕らインテリは,一般市民以上に,用心深く体制の手中にはまって,それを建設的対話と呼ぶか,体制と闘うと称して人生から完全に身を引いてしまうか,どちらかしかないんだ。体制に抵抗することで名を上げた人間は大勢いるが,彼らも体制なしでやっていけない。きみは武器をとって体制に立ち向かう気はないんだろう?


p.250〜251 「テヘランでロリータを読む」


 彼女は煩悶としながら,復職することになる。それは苦悩の始まりを伴って。
 アーザル・ナフィーシーの文学論も引用しておきたい。アメリカ人作家ヘンリー・ジェイムズについて。

 ジェイムズの一生は力をめぐる闘いだったーー力といっても政治的権力ではなく(彼はそのようなものを蔑んでいた),文化の力だった。彼にとっては文化と文明こそが何より重要だった。ジェイムズに言わせれば,人間の最大の自由は「思考の独立」であり,それによって芸術家は「数限りない生の形態に対する攻撃」を楽しむことができる。とはいえ,これほど大規模な虐殺と破壊に直面して,彼は無力感をおぼえた。イギリスへの,またヨーロッパ一般へのジェイムズの親近感は,こうした文明の意識,文化と人道主義の伝統から生じたものだ。しかし,彼はいまやヨーロッパの堕落,過去の重みからくる疲弊,略奪を好む冷笑的な本質をも見てしまった。ジェイムズが全力をそそいで,とりわけ力を使って,正しいと信ずる人々を助けようとしたのは何ら不思議なことではない。彼は言葉のもつ治癒の力に気づいており,友人の作家ルーシー・クリフォードにあてて次のように書いた。「私たちは命がけで,現実に対抗する私たち自身の現実をつくらなければなりません」


p.298〜299 「テヘランでロリータを読む」


 全体主義がゆきわたった結果の一風景ともいえることもとりあげられている。彼女の行った試験の答案が,クラスの大部分で講義の内容そのままが書かれていた。彼女はそのことに怒る。しかし,大学の同僚は,それはいつものことであり,学生は教師のいったことをすべて憶え,一字一句変えずに返してくるのだ,と言う。
 学生たちの弁明とは,

小学校に入ったその日から,先生の話を暗記するように言われた。自分の意見などどうでもいいと言われてきたのだ。(略)「でも私たちが育った環境のことも考えてください。ほとんどの人は何かでほめられたことなんて一度もないんです。ちょっとでもいいところがあるとか,自分の考えをもてとか,そんなこと言われたこともないんです。そこへ先生がやってきて,一度も尊重するように教えられたことのない原則にそむいていると非難しはじめたんです。それは無茶だと思います」


p.304〜305 「テヘランでロリータを読む」


 ええ,無茶だと思います。私も。
 もう一度,文学論を引用して,このエントリーを終いにする。返す返すスゴい本だ,と思う。あのイランにおいて,こうして英文学と向き合う日々があったということに。
 そして,多くの日本の読者を獲得することを願う。それも女性の。

「きみはいつも言っていたじゃないか。オースティンが政治を無視したのは,政治がわからないからではなく,自分の作品,想像力が現実の社会にのみこまれるのを許さなかったからだって。世界がナポレオン戦争にのみこまれていた時代に,オースティンは自分だけの独立した世界をつくりだした。そして二百年後のイラン・イスラーム共和国で,きみはその世界を小説における理想の民主主義だと教えている。圧政との闘いの第一歩は,自分のすべきことをして,自分の良心を満足させることだと,きみはさんざんいっていたじゃないか」と彼は辛抱強くつづけた。「民主的な場,私的な,創造的な空間が必要だとくりかえし言っていたじゃないか。それならそれをつくってごらんよ!がみがみ言ったり,イスラーム共和国がどうしたこうしたというとこにエネルギーを使うのをやめて,きみのオースティンに集中するんだ」


p.385 「テヘランでロリータを読む」

テヘランでロリータを読む

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