そのフランクさは,日本語ではない言語が由来だろうか。


 ずいぶんと前になるけど,Webで見た記事について。

敬語や丁寧語といったように、相手に合わせて言葉を変えるという点で、僕はとても素晴らしいと思います。イギリスのカスタマーサービスはひどいと過去の記事に書きましたが、こちらでは客であっても対等な扱いをされます。


ちょっと想像してみてほしいんですが、コンビニやレストランでスタッフがお客さんに「今日はいい天気だね。で、何頼むの?」みたいなことを言ってきたとしたら、僕たちの常識ではありえないですね。僕らは無意識のうちに、お店側とお客様とでは「お客様は神様」というように考えていると思います。


このように、上下関係を決めたがるのが日本語の特徴なのかなと最近思うようになりました。そして、それこそが最近何かと話題に上っているいじめ問題の原因にもつながるのではないでしょうか。


日本語はもろ刃の剣? 礼儀の影に潜んだ危険な側面を考えてみた | バンブルビー通信


 現在,イギリスにいるという,このブログ主。なるほど,フラットな社会と主客関係の社会について感じたようだ。私も同様の経験がある。
 私がアメリカの大学の研修会に勝手に押しかけたのは,1998年の6月。もう15年も前の話し。日本から大学人でもない一般人が研究者たちに混じって,カリキュラムをこなした。赤い土と本当に広々としたキャンパスが印象深かった。大学で地理学について学ぶ初学者向けのインタラクティブ教材について,教授法を含めて学ぶものだった。
 もちろん,学んだことだけでなく,全米から集まった研究者や教員とすごした貴重な経験だった。その場で見えたことについて,いくつかのメモをのこしていたはず,とバックアップHDを探すと,ファイルが出てきた。

名前攻撃
 「ケィズイロ!」。ジョンがこっちに向かって叫びます。何のことはない、僕の「和博(カズヒロ)」という名前を呼んでいるのです。親にさえ、もう、ほとんど呼ばれることのない名前がジョン以外の人からも連発されます(特に僕は弟がいるため、早くから「ニイチャン」でしたし)。しかも、互いにかわす会話の中にどんどん出てくるのです。本やテレビでこういう社会だと理解できていても、いざ、生身の人間が話しかけてくるととまどってしまいます。でも、慣れると名前を(しつこい位に)連発する世の中の方が、よいのではないかと思います。「呼びかける」ということが、誰を相手にしているかが明瞭になるし、何より空気に向かって話しかけるこということがないのですから。
 今回のワークショップに参加している限り、老いも若きも僕らは等しく参加者(participants)です。互いに名前で呼びかけます(あんまり、自信はないのですがおそらくタメ口で話していたと思う)。年齢や肩書きじゃないんです。その人と1対1で向き合うんです。そうすることで互いを理解しようと努力している。そういう社会です。ユダヤ人の老教授に向かって、ミスターもドクターもなく、ファーストネームの「ホーヘ」と呼びかけます。全米7,000人以上の組織であるアメリカ地理学者協会(AAG)のトップに向かって、「パァット!」と話しかけるのです。もちろん、彼(彼女)らは、「ケィズイロ!」と言い返してきます。気持ちのいい社会です。日本で顔の年齢のきざみが深い教授や学者の集まりのトップを呼び捨てにすることを想像していただきたいのです。背筋が凍りそうではないですか!
 名前を会話に多く使う社会とは、「あなたの存在を認めているし、それ故に名前を覚えている」という関係を互いに築く社会だと、言えるでしょう。これ故に、両者のコミュニケーションは、高まり真剣になっていきます。コミュニケーション、ここでいうのは互いの意志疎通のことですが、お互いの意思のやり取りを細かく、しかもあきらめないことで、互いのうやむややあいまいさを減らし、思いや考えを共有しようする人達とその社会というのは力強い、そして発展すると思うのです。


メモはまだある。

男女観
 人間としての能力の判断を、性差に関係なく個人としてみる−この当たり前の事実に驚いてきました。今回のワークショップ参加者の半数は、女性です(何しろ、主催者が女性なのだし)。彼女らは、何ら臆することなくことなく堂々としています。ショートパンツ姿で、足を組んだり、投げ出したりしているのは当たり前(しかも、長い)。日本で若い女性がこうしていると、「オイオイ、キミ」の対象だろうナーと思います(「ショムニ」を思い出しますね)。彼女たちの名誉のために言っておくと、決してアバズレという訳じゃありません。むしろ、フォーマルな席での身のこなしは当然にわきまえています。ただ、フランクな席では男女の区別なくリラックスしているということです。男だけがリラックスして、女は奥で別のコミュニティーを形成することはありません。男社会に無理やり合わせて、肩の力の入っている女性像でもなければ、職場のお母さん的ポジションを担うわけでもありません。男女が同じ参加者としてリラックスしているごく普通の感じなのでした。
 滞在中、なにより驚いたのが(僕の感覚の古いことの証しなのだけど)、臨月と思わしき女性が積極的に参加していることでした。このことは、日本でもあり得ることです。しかし、周りが当たり前のこととして受け止めている。特に意識した様子がない−このことに驚くのです。ヒヤヒヤしているのは、僕だけです。お腹が、ぶつかるんじゃないか。転ぶんじゃないか。フィールドトリップに参加して、こんなに歩いて大丈夫?...etc。全く、情けない。彼女は、平然としかも毅然とこなしているのに、です。部会に分かれた際には、会議のリード役を率先して引き受けてさえ、いるのです。驚きました。でも、当たり前なのです。心と体の強い女性像をイメージしなくちゃならない。もう、既に時代は変わったのです。


臆面も無く,昔の自分の文章をさらしてしまう羽目になった。まあ,イイけど。
 イギリス滞在中の彼と同様に,当時の私も同じような体験をした。ただ,彼は,こう結ぶ。

日本語というのは礼儀正しく、美しい言語ですが、話す相手との上下関係を瞬時に決めてしまうという危険な側面を持っているんじゃないかと思いました。それがいじめる側といじめられる側であってもそうですね。


(略)


日本語はとても美しい言葉ですが、上下関係や権力差を生みやすい言語体系なのかもと思います。これは僕の意見に過ぎませんが、そういうのが根底にあるとしたら、いじめというのもなかなか無くならないんじゃないかなと思いますね。


日本語はもろ刃の剣? 礼儀の影に潜んだ危険な側面を考えてみた | バンブルビー通信


 果たして,そうだろうか。日本語が規定するのか。上下の関係性を,多くの場面で表出しているだけじゃないのか。

 私の学校の後輩にKという人がいた。
 紀州の海岸の生まれで,大会社につとめてきた。ところが中年になっても,役づきになれない。
「なんでやろ」
 私にきいた。じつに可愛い感じで,私には物言いそのものがおかしい。私も調子をあわせて,紀州弁で,ちょっと上役に敬語でも使うてみたらどうや,と言ってみた。
「そんな冷たいこと,でけるかいな」
 紀州方言には敬語がない,と方言学のほうでめずらしがられている。


p.45 ことばづかい 「風塵抄」 司馬遼太郎


実は,日本や日本語においても,フラットな関係性はある。
 では,相手に丁寧な言葉は,どこから来ているのか。

 江戸期,上質の日本語の習得のために,武士階級は謡曲をならい,大阪の町人階級は浄瑠璃をならった。
 各地の農村では,寺のことばづかいを学んだ。江戸期,人の移動に制約はあったが,寺の小僧は住職になる修行のために今日へゆき本山で学問をする。あわせて行儀とことばづかいを身につけ,村に帰る。それが,丁寧な日本語の普及に役立った。
 明治・大正の大阪の船場の商家では,お茶やお花の師匠を京から読んだ。娘たちに言葉の修行もさせるためであった。
 江戸の旗本屋敷では,さらに厳格だった。
 大人になって殿中や,他家を訪問して恥をかかないよう,母親が,息子や娘たちに丁寧な敬語をつかった。それが明治後,山ノ手に住んだ薩長などの官員たちの家庭にひきつがれた。
 いまはひどい。小学校は,多くの場合,児童が先生に友達言葉で話しているのである。


p.46〜47 ことばづかい 「風塵抄」 司馬遼太郎


 冒頭に引用したブログ主が日本で感じた言葉と社会の関係性は,案外,訓練や研修で身につけられたものかもしれない。



風塵抄 (中公文庫)

風塵抄 (中公文庫)