芸術とともにどう生きるか,ということ


 昨日の朝日新聞文芸時評が,とても印象深いものだった。

 NHKの連続テレビ小説半分、青い。」を観(み)ていて、どうしても覚えてしまう違和感、という表現では足りない、ほとんど憤りにも近い感情の、一番の理由は、芸術が日常生活を脅かすものとして描かれていることだろう。漫画家を目指すヒロインは、故郷を捨てて上京する、そのヒロインが結婚した夫は、映画監督になるログイン前の続き夢を諦め切れずに妻子を捨てる、夫が師事する先輩は、自らの成功のために脚本を横取りしてしまう……漫画や映画、そして恐らく小説の世界も同様に、生き馬の目を抜くような、エゴ剥(む)き出しの競争なのだろうと想像している人も少なくないとは思うが、しかし現実は逆なのだ。故郷や家族、友人、身の回りの日常を大切にできる人間でなければ、芸術家には成れない、よしんばデビューはできたとしても、その仕事を長く続けることはできない。次々に新たな展開を繰り出し、視聴者の興味を繋(つな)ぎ止めねばならないのがテレビドラマの宿命なのだとすれば、目くじらを立てる必要もないのかもしれないが、これから芸術に携わる仕事に就きたいと考えている若い人たちのために、これだけはいって置かねばならない。芸術は自己実現ではない、芸術によって実現し、輝くのはあなたではなく、世界、外界の側なのだ。


(文芸時評)芸術と日常 人生の実感、率直な言葉に 磯崎憲一郎:朝日新聞デジタル


 芸の肥やしとしての「飲む打つ買う」。それは,本人の身体,精神ばかりでなく,経済状況や周囲を蝕む。ときに,技芸とはそうしたものだと古今東西の幾多の芸術家の例が,僕らに教えてきた。
 だが,それが正しいのか,否と磯崎は言う。現実は逆なのだ,と。「故郷や家族、友人、身の回りの日常を大切にできる人間でなければ、芸術家には成れない」。さらに,「芸術は自己実現ではない、芸術によって実現し、輝くのはあなたではなく、世界、外界の側なのだ」とも。
 子曰く,「道に志し,徳に拠り,仁に依り,芸に遊ぶ」。この場合の芸とは,六芸であり,礼法,音楽,射術,乗馬,読書,計算のこと。孔子は,道徳仁芸を説く。
 また,リベラルアーツとは,「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」としての自由七科。
 磯崎が吐くセリフは,芸が人のどこに置かれるのかとして,孔子古代ギリシアのことも思い出させる。
 どうしようもなく表現せずにはいられない業(ごう)や性(さが)としての芸と,本人の生活の両立を図ること。それが芸が磨き,その芸が周りを照らす,ということを。
 そして,磯崎が紹介する保坂和志の「ハレルヤ」を読んでみようと思った。


ハレルヤ

ハレルヤ