読書感想文「ある男」平野啓一郎

 変身である。能面をつけること,仮面ライダーがポーズを取ること,遠山の金さんが着けた裃を脱ぐことなど,何者かになった後,その何者かであることを理由に「力」を発揮する。このとき,A→Bなのか?という疑問がついて回る。A→A′ は本質的にはAなのであって,決して,そもそも異なるBになったわけではないのではないか?という疑問なのだ。それは,A→A′ →Aと,なすことをすませると戻ることからもわかる。
 ある男とは,変身したまま死んでしまったことで,元に戻れなかった,いや,変身の物語を回収できなくなった男の物語である。たまたま,面の紐,ライダースーツの背中のファスナー,旗本ことばが,バレずにスタートした家族の生活を3年9ヶ月を過ごせただけであって,やがて,コスプレや着ぐるみへの着替えの途中を見られてしまうような見っともなさを,迂闊にも見せてしまうのが家族だからだ。
 そうした,A′ ではなく,あたかもBであったような幸せな時間を,読者は確認するのだ。


ある男

ある男