そっかー、下町は無くなるのか。
やたらと説明してくるように、吉本ばななが主人公に仮託して語らしめる、人と人との距離感や関係性が独特な「下町」があった時代が終わるのだ。それを記念写真のように描いておこうとしたのだ。「下町」では距離感が近すぎるどころか、互いが重なりあっちゃうものだから、勘どころが鋭い子には気配が読めちゃう。もう人間「関係」の関係の方が実体化しちゃう。いや、言い過ぎた。お互いがはみ出しあって領域が重なるものだから、気遣わなければ刺さる。インクルージョンとは案外、そんなものだ。
下町もサイキックも表すのは、「生」だ。AIやデジタルの嘘んこ感、非実在感ではなく、ナマの「そこにいる」ゾクゾクっとして振り返ってしまうあの感じだ。この「生」をいま、書いておかねばならなかったのは何なのだろうか。チープな舞台装置をあえて使ってまで、無くなろうとしているものを、そして時間が過ぎていくこととは?を、2024年に描くことの意味を知るのは、もう少し後のことなのかも知れない。
ある種のふるさとの喪失なのかもしれないし、単に場所だけではなく時間の経過によってもたらされた「角を曲がってしまった」ことを思うべきなんだろう。
