えらいことである。マチの思想とは違う文脈で生きるシマの人たちの考えが言語化されている。近代化によって切り捨てたはずの離島や半島などの不便な暮らしに価値や意義があり、まだまだどっこい生きている。しぶとい。
シマに生きるとは、面倒臭いのだ。その島の他の住民とのつながりに左右されるし、相手は天候だったりする。全然、自分のペースにならない。そもそも打てば響くようなコミュニケーションが成り立つかどうかもあやしい。しかし、である。そもそもが余白や隙間だらけなのだ。周りと折り合いさえつけて仕舞えば、自分が企画者となって自分の頭で考えたことを自分で実現してしまうことは可能だ。むしろ、誰も考えてはくれないのだから、自分の頭で考えなくてはならない。他人任せにできないし、他人のせいにもできない。それに、反応は薄いかもしれないが、島の人は黙って聞いてくれていることだろう。そうした世間や世の中の成り立ちが、マチとは違うのだ。
約400の本邦有人離島や往来に時間のかかる半島など、マチの尺度で計っていけない暮らしがある。効率さと便利さとスピードの競争の過剰さを追い求めることとは違う暮らしの設計思想の存在を認めることだ。世界は一つでは無い。むしろ、グローバル化する世界経済なんてのは、画一的なモノカルチャーなのであって多様性でもなんでも無い。
都会人は思い知るべきなのだ。たまたまマチという基盤があって自分の価値が発揮されているに過ぎないのだ。そのことを俯瞰できるように、定期的にシマへ出かけ「全然役に立たない自分」というのを身に染みて理解すべきなのだ。その逆も然り。都会で、自意識過剰で自己承認欲求に潰されそうになってる者は、とっとと荷物を下ろしてシマ暮らしを始めるべきだ。
せめて頭の片隅にでもシマ思考をインストールするべく。「活躍」やら「自己実現」などを横に置いて。
