金融とは、いかにも政治である。本書においては。ただ、本来、そうあっちゃいけない。
金融システムを維持するために、日銀特融や公的資金注入などによりシステム不全を未然に防ぐことはどうしても必要であり、モラルハザードを声高に叫び経営責任をことさらに重視し、時間をいたずらに浪費してしまうと、金融危機どころか金融恐慌を招き、再建や後処理に膨大な時間と労力を要する。
機能を守るために、国有化を含め必要な処理をする。この際、妨げになるのは、世論であり、感情だ。貸し渋りや貸しはがしを行ってきた連中が救われ、実業に精を出してきた市井の人たちが馬鹿を見るのはオカシイだろう、という批判に耐えきれないし、判断も鈍る。この世論や感情に直接、向き合うのは政治なのだが、金融はプロの世界なので、世間の感情をぶつけちゃダメなのだし、もちろん、政治の側のプロも金融については素人だったりする。なので、あくまで、数字の話しは金融のプロに任せ、その一方で、大衆向けの安定した日々の暮らしのための制度や利便性を確保するための事業づくりが政治の仕事だ。合わせて、納得感や公平さが伝わるような透明性も、金融セクターが市民社会の一員であるために求められる仕組みづくりも政治の役割だろう。
結局、政治改革・行税制改革がなぜ必要だったのかと言えば、ジャパン・アズ・ナンバーワンに驕り、調子にのり、大蔵省だけでなく、日銀も接待漬けで、金融の監督するための信用を失っていたことで、緊張感を失って士気が下がり、世論や世間感情に抗することができなくなったのが、根源だ。当局がクリーンであれば、スピーディーかつオープンな護送船団方式もできただろうが、信用失墜していたために、市場に委ねることが第一の道理となった。円は日銀が刷り、国債は政府が発行するのだ。本来、市場ではなく、彼らの法制度スキームでどうにかなった。詰まる所、金融システムを守る処方箋は、公的資金の注入だった。棒立ちになった本邦の金融は、市場競争の原理原則に忠実な外資に振り回された。
バブル崩壊の中核である総量規制には触れられてはいない。土地問題が加熱し過ぎて、信用収縮を起こした。この崩壊の着火点は「後始末」で語るわけにはいかず別著に求められるだろう。
