犬山流が訴えることの意味を考えてみた


 あちこちで,「子ども」が政策課題となったり,選挙のテーマになったりするこの頃なのだが,そこでの目指すべき子ども像,とりわけ,「勉強できるいい子」(に,なって欲しい)のための「充実した子育て環境」とやらに,どうにも,居心地の悪さが拭いえないでいる。結論を先に述べることはせず,このことを考える材料から,見ていこう。

 「教育理念が合わない」と,過去2回の全国学力調査に全国で唯一参加しなかった愛知県犬山市。今年4月にあった3回目の調査は参加に転じたが,そこは「犬山流」。「参加した立場から問題提起する」と言う教育委員会のもと,国任せにせず小中学校全14校が独自に採点し,結果がおおむねまとまってきた。


学力調査 犬山流で参加 独自に採点 授業に生かす
2009年8月9日 朝日新聞


さて,その採点とはいかなる作業だったのか。

 6年の学年主任の杉本恵子教諭は「同じ誤りでも,字数が足りないのか,ほかの条件が合っていないのか,そこを見ることが重要」と言う。「回答が空欄でも,児童があきらめてしまったのか,一生懸命やった結果なのかで違う」。あきらめてしまった児童には,文章を読む動機づけを考える。一生懸命やってできなかった児童には,読み方や書き方を教える。
 杉本教諭は,「得点だけで判断されれば,できない子がさらに自己否定することにつながり,自信を持てなくなってしまう」と指摘する。勝村偉公朗教頭も「できない子を切り捨てては。それが義務教育のあるべき姿だ」と話す。


学力調査 犬山流で参加 独自に採点 授業に生かす
2009年8月9日 朝日新聞


 全国学力調査を拒否してきたことに,なにやら奇異な印象を勝手に持っていたことを私は恥じる。教育者のあらん限りの姿で,この全国学力調査と向き合っているからだ。この犬山市での全国学力調査を導入するか,を議論した教育委員会の会議が,記事で残っている。

 注目されている愛知県の犬山市教育委員会の会議を傍聴した。
 驚いたのは,議論がオープンでホットなことだ。約50人の記者や市民,そして市長までも傍聴席に座っていた。
 委員6人だけでなく,出席した校長や学者も積極的に意見を述べた。
 「現場には慎重論が多い」と報告されると,「公衆の前でなく,個人的に校長に聞くと,そうでもない」と学力テスト賛成の委員が反論した。すると,現場の校長が,「テスト結果が公表されて子どもに劣等感を植えつけないだろうか」と不安を話す,という具合だ。
 「反対意見ばかり聞かされ,民主的でない」と委員が不平をいうと,傍聴席から「その通り」と声も上がった。
 「競争に勝つ見込みがある子だけが伸びればいいのか。小学1年から負け続けた子は勉強しなくなる。どの子だって本当は学びたいんだ」と,教育学者が話したときは,静まりかえっていた。
 みんな,自分の学校時代や子どもの顔を浮かべて聞いたのではないか。
 全国でどれくらいの教育委員会がこんな白熱した議論をしているだろうか。


犬山市教委の討議 「窓」 2009年3月19日 朝日新聞


「オープンでホット」に,どれほど我々の教育委員会は議論できただろうか。そしてその議論は,どれほど,子どもたちを個々に意識できたものだったか。
 ここで,私は考えたい。教育とは,成長とは,そしてそれらは人材の製造・供給とどのように違うのかを。

 キャリア教育論に対するもう一つの違和感は、それが子どもたちに「勝ち組」をめざさせる、動機付けの道具のように扱われていることだ。
 わかりやすい例をあげよう。メディアがセンセーショナルに取り上げるキャリア教育実践は、都会の進学校のものが多い。キャリア教育に力を入れることで、生徒の意欲が高まり、有名大学への進学率がアップした、といった「物語」が目立つ。筆者もその価値をまったく認めないわけではない。しかしキャリア教育が直面するべき今の時代の本質的課題はもっと別のところにあると思う。
 大企業で働くホワイトカラーに象徴される高偏差値エリートを「勝ち組」、それ以外の生き方を「負け組」「落ちこぼれ」と見なす。そんな価値観、心性が一般的になり、子ども、若者もその影響を強く受けるようになっている。しかしそれは、バーチャルなキャリア観にすぎない。キャリア教育の意味、真価は、こうして偏りのある情報で頭でっかちになってしまった子ども、若者に、リアルなキャリア観を育むことにあるはずだ。


工業高校が地方小都市を再生する(1) 〜「こんにちは」が自然に響く元教育困難校:日経ビジネスオンライン “勝ち組”以外のキャリア教育


 この連載での指摘は重要だ。高偏差値エリートが社会の多くを占めるのではない。もちろん,ノーブレス・オブリージュを体現するエリートの存在は,もちろん必要だろう。だが,エリート以外の大勢が,やる気や存在感を失い,漂ってしまうようでは健全な市民社会が実現するわけはない。だからこそ,この連載の最後は,こう締めくくられる。

「誤解される言い方かもしれないけれども……この世に生まれて、誰もが総理大臣や弁護士や医者や大会社の社長になれるわけじゃない。たまたま小さな田舎町に生まれた。家はお金持ちじゃない。勉強はあまり好きじゃない。特別な才能があるわけじゃない。そんな子もたくさんいる。むしろそっちの方が多数派でしょう」
「日本が右肩上がりの時代にはなんとかなった。そんな連中も、本人なりに頑張れば幸せになれた。でもこれからはそんなに甘くない。誰かが、彼ら彼女らの幸せな人生を真剣に考えなくちゃ。そのための教育が必要なんじゃないですか。ところがいまの教育論は、肝心のそこを忘れているんじゃないか」
(略)
 経済のグローバル化が進み、産業構造が大きく変化して、日本人の「仕事」「働き方」はすっかり様変わりした。高度成長期には共存共栄の建前が保たれていた都市部と地方部の格差が拡大した。キャリア形成能力と直結して個人間の「勝ち組」「負け組」格差も広がった。そして社会はますます流動的に変化し、将来の見通しは不透明になっている。
 そんな今考えるべきなのは、吉田さんが言う、「田舎の」「金持ちじゃない家の」「特別な才能もない」子ども、若者のキャリアを保障する教育とは何か、というテーマではないか。少し一般化して、「人間と社会を底から下支えするキャリア教育とは何か」と言い換えてもいい。


工業高校が地方小都市を再生する(4) 〜誰が「普通の子」の幸せを考えるのか:日経ビジネスオンライン “勝ち組”以外のキャリア教育


 多くの親がそうであるように,地域の大人たちも欲目が出て,子どもたちには「立派になって,社会で活躍する存在になってほしい」と願う。そのこと自体は,健全な夢だろう。だが,子ども一人一人の心に耳を傾け,どれほど,「自分のところの子どもは…」ではなく,「普通の子」にとっても幸せが訪れるような社会をつくれるかが,大人の仕事だろう。
 他の自治体と「子ども政策」を競う,その競い方とはどうあるべきだろうか。子どものいる親たちを奪い合うことなのだろうか。私は,地域にいる「普通の子」たちに,ちゃんと寄り添う大人づくりが重要に思えてならない。