ウチダカズヒロのブログ

最近は読書感想文を書いてます。オススメ本を教えてください。読書感想文のご依頼あれば、読みます(たぶん)。kazgeo@gmail.com まで。

読書感想文「「新」富裕層ビジネスの教科書 1000人の富裕層から学んだ秘密の営業術とマーケティング術」岸田 大輔 (著)

 あなたはお金持ちを相手に商売をしたいか。
 それはどうやら、自分の人生で、自分が自分自身にリーダーシップを発揮することを選択することになる。誰彼から指示命令を受けるだけの人間では話しにならない。自分自身のボスは自分であり、そのことを選択した者が進む道なのだ。
 お金持ちとは、それぞれトップないし相応の裁量権を持つ人だ。そんな「上の立場」の人を相手に、あなたはどこに立つか。「そんな偉い人が相手なんだから、当然、下から恭しく、もしくはペコペコすべきでしょう」。そう答えたあなたはリングに上がれない。お金持ちが欲しいのは、価値だ。下の立場の人間が欲しいわけではない。そんな顎で使える人間は、既に大勢、持っているのだ。
 だからこそ、堂々とせよ。堂々とした自分であれ。モノやサービスそのものじゃない。そのモノやサービスの価値、ストーリーを提供するのだ。横の関係で供されるから納得できるし、彼らの好奇心も満たされる。
 もちろん、お金持ちは多様だ。「旧家」の伝統と格式こそ大事と言うお金持ちもいる。その一方で、アクティブに資産と人生を動かすことに興味を持っている人もいるのだ。好奇心旺盛な新たなお金持ちたちこそ、我々が自己の夢や目標も語るべき相手だろう。
 お金持ちと向き合う際に、自分はどうあるか。そんなことを考えさせてくれる一冊だ。


読書感想文「わたしのおとうさんのりゅう」伊藤比呂美 (著)

 薄れて朧げになっていく家族の記憶を、娘が語る話しだ。よくもマァ、ここまで掘り下げたものだし、向き合ったものだ。
 ヤクザと芸者から足を洗って堅気として生きる両親のことを、記録と幼少の文学体験とともに辿る。大好きな父とはいえ、記録された父の記述はネガティブだし、反社そのものだ。小説や映画の登場人物にまでされるのだ。腰を抜かすだろう。
 魅力的な父に、愛された娘である。その父は「負ける」ことを知っている。「負けた」後の人生を生きている。才能もあった。実は、そうして生きた大勢の人たちが日々、暮らしたという昭和でもあった。
 司馬遼太郎は明治を讃えるが、教育や文明は庶民の暮らしの隅々まで行き届くことはなかった。乱暴さと無教養が野蛮な社会を作っていた。結局、戦後とは何だったのか。リセットされ、平和を希求したのは正しくとも、戦前・戦中を完全否定した。戦後に誰が機会を与えられ「インテリ」の役割でもって、物事を決定する立場になったのか。そうした戦後の指導的地位なんてのは、本人の能力と努力というのかも知れないが、割と偶然や好き嫌いの関係でもって得たに過ぎなかったりする。
 うっかり、過去を覗いてしまったためにやるせなさに包まれる。


読書感想文「絶対泣かない」山本 文緒 (著)

 「きっかけ」の可視化である。そんな一大事は起きない。モブの人生とは平坦であったとして、それでも冠婚葬祭、成長や老化はある。そこに出会いも別れもある。大げさなことではなくても、そうした出来事が人をつくる。とは言え、些細な出来事は流され、消えゆくものばかりであるからこそ、日々、せっせと写真を撮り、記憶を補う。
 そうした誰にでも起きる日常を言語化してみせた短編集だ。「へー」や「ほー」が出てこない。これら数ページの短編が個別にネットにアップされたところで、アテンションを集めるだろうか。コタツ記事として拡散されるだろうか。そんなことはないだろう。ビックリさせたり、興奮させたり、揺さぶられるような「エモさ」が求められる時代だ。
 だが、僕らは「ふーん」と掃いて捨てられるだけのありふれた日常を生きている。それでも、ここにある短編は、そんなちっぽけな人生を肯定してくれる。じゃあ、それでいいではないか。不安や疑心暗鬼にまみれ闇雲さに拘泥しながらも、エモさやワクワクすることを追い求めなくちゃならない「今」が本当にいいのか。
 日々、前進できることの実感を感じられる、過ぎ去りし時間をスナップショットにとどめたような短編集だ。


読書感想文「女二人のニューギニア」有吉 佐和子 (著)

 思い出すのは、「なるほどザ・ワールド」であり「世界ウルルん滞在記」だ。リポーターが世界へ飛び出し、現地を伝える。我々は、世界の本当を知った気になった。兼高かおるが作り上げられた「世界」に満足できなくなったお茶の間が求めた「海外」だった。当時、盛んに言われたのは「コクサイカ」である。これからは「国際化の時代」なのだそうだった。当然、未開の地を訪ねても、十分な資金とスタッフで安全が確保されているのは画面のこちら側でもわかった。
 世の中には、瓢簞から駒が出るように、なぜかニューギニアに旅行に行ってしまうことがある。ホンマかいな、である。忙し過ぎる有吉佐和子が判断力の低下と人的つながりの期待でもって、まんまと、かつ、甲斐甲斐しく旅の支度をしてニューギニアへ行ってしまい、後悔する。なので、ほぼ愚痴だ。多忙と疲労による判断力の低下は、ろくなことにならない。情報不足と自分への過信は戒めるべきだろう。
 後悔するということは、過去の自分を客観視できている、ということでもある。この客観視する観察眼は周囲にも向けられる。有吉は周囲を分析し理解する。とりわけ相棒の文化人流学者という存在に目が向けられる。有吉の目を通じて、我々は文明について考える。文明社会とはよく言ったもので、文明とは社会規範も伴うし社会によって共有される交換価値も変容させる。文明社会と未開社会の接触する場面で衝突しかねないヒヤヒヤする場面の臨場感もわかる。こうしたリアリズムを後世に残しておいてもらって本当によかった。
 ポンポンと感情にまかせ出てくる明け透けなオバちゃんの会話の小気味良さも味わうことができた。そうした明るさに救われることも多かった。


読書感想文「大きな鳥にさらわれないよう」川上 弘美 (著)

 ナウシカのオマージュである。
 シュワの墓所の主が登場し、絶滅種としての人類が描かれる。
 繁栄と没落を神の営みと絡め書き表したかったのは何故だろうか。東日本大震災から3年後に上梓された本書は、震災後の社会へのアンサーソングであったのだろう。当時は失われた20年が言われた頃でもある。必ずしも人口減少と経済の衰退は直結するものではなく、人口減少下であっても経済成長している国はいくらでもあるし、いま、日本経済は成長し始めている。だが、この小説が書かれた当時、あたかも人口減少社会が絶望をもたらすように喧伝されたことが背景の一つにあっただろう。
 ChatGPTのように、丁寧な言葉遣いで、あたかも思いやりがある風に話しかける存在の登場は、予見的だ。こうしたクリーンで無機質でも懲りずに相手をしてくれるコンピュータ像とは、星新一以来の伝統でもある。そして、厭世的かつ合理的っぽく、神性を嗤うやり方は戦後日本社会の知性の定形ともいえる。
 SFのようではあるが、紙芝居や影絵のように進む寓話が、薄っすらと気味悪く感じさせるのも、実に日本的ではないか。そんなことも思う。


読書感想文「桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活」奥泉 光 (著)

 「教えてくれ。ジンジン!」と叫びたいオジさんは、日本に相当な数がいるのではないか。
 作家の手により、いじられる対象である主人公・クワコーこと桑潟幸一の窮地。掛かる事態を見抜き、情けないクワコーの困難を救うべく、切り札をスパッと出すホームレス女子大生探偵(って何なんだよ!)・ジンジン。もちろん、ジンジンだけでなく頼りになる文芸部の皆んなによって助けられるクワコーは実に果報者である。
 内輪ノリのバカバカしくもくだらない日常会話は愉快でもあるし、付き合いきれない(褒めてる)。なので真面目に読んではいけない。スピード感、なんならドライブ掛かって勢いのまま、読み進めるべきだ。クッダラネー、ゲハハハハの世界を描いた本に対しては、それなりの読み方がある、ということだ。
 そうした生態や世間を描いて見せつつ、だめオジを嗤っているようでいて、こんな遠回りをしながらもエンタメを成立させている、ということでもある。そうした力量も感じないわけにはいかない。
 「残念な学園」を舞台にした平成推理エンタメとして、読まれていい一冊だ。


読書感想文「我が身を守る法律知識」瀬木 比呂志 (著)

 紛争の解決の場面において、加害者も被害者も、しばしば能面のような表情を持たない面倒くさがりな事務的な処理によって、ひどく非人間的で杓子定規な扱いを受けてしまう、ということだ。それも、権威性を帯びて。
 さて、どうやって「我が身を守る」のか。結論としては、慎重に生きろ、ということになるだろう。救済制度をろくに知らないのに諦め絶望する必要はないが、それでも過剰に期待してはいけない。争いを避け、未然に防ぐことよりベターな方法はないのだ。
 読み進めていくうちに、ドンヨリとしてくるのは、本邦におけるノブレス・オブリージュの欠落を感じるからだ。何に対して勇敢であるべきか?である。正義を貫き、弱者を守り、愛を語る精神規範に対し、我らは、儒教精神が染みつき、主君への忠義が第一であるため、どうしても体制寄りとなって「忠誠」を誓ってしまうし、「名誉」を重んじるから無謬性に拘り嘘も糊塗してしまう。その癖、潔さをもとに死を厭わないから、人を大事にしない。そんな社会に生きているのだ。ヤレヤレ。
 最後に、瀬木先生を言葉を引用しておこう。「人々が専門家に抱いている『完全無欠あるいは少なくとも大半が高水準』というイメージは、明らかに幻想なので」ある。「先生」と呼ばれる人だって、当たり外れがあるので注意しよう、ということだ。