読書感想文「弱いロボット」岡田 美智男 (著)

 疑問の量がスゴい。雑談とは何か。関係とは何か。世界とは何か。場とは何か。コミュニケーションやロボットを考えるにあたり、最前線の研究者とは、そんなところから掘り返すのか!と思う。
 ロボティクスやFAの腕がグルングルン動き回って動作していく世界ばかりか、知能のオバケが全知全能の「何でも知ってまっせ」状態で「こんなふうにまとめてみたんやで」と完璧、十徳ナイフの万能性を発揮しちゃう、こんなAIマンセーな時代なのに、ロボットの方から「お宅ら人間がいてくれて初めて成り立ちまっせ」というのである。これをコペルニクス的転回と言わずして何て言おう。
 「役に立たなさ」とは、「関係づくりを引き出す」ロボットであり、引き出された関係やコミュニケーションによって、意味が生じる。ロボットが自律的・自発的に人間に有益な生産行為を行うことを放っておいても勝手に生み出してしまうような「知性」や「お役立ち」とは違うのだ。
 そう考えると、役に立たないヤツやジリジリさせるグズとは、社会における創発を生み出す媒介を果たしているのではないか。つまり、そいつがいる場において、周りがつい手を出してしまう、先回りして用意してしまうことによって生まれる便利な道具やサービス、結果としての関係調和を生み出してしまうのではないか。「あー、もう!」と言わせながら。つまり、必然的に存在する子どもや老人を中心に、ハンデを持つ人たちが一定程度の割合でケアを要求することこそ、コミュニケーションや創発を生み出す源になっているではないか。
 そして、この「一人では何もできない」「いつも他者を予定している」ロボットというものの発明(発見の方が適切かもしれない)とは、「できなさ」を武器に相手を「道具」として動かすというソーシャル・スキルをロボットに身につけさせたということである。
 「ついつい構ってしまってもらえる」ことの方が、「ちゃんとして何でも自分でできる」ことより優位では?とコミュ障に突きつける強烈な命題だったりする。


読書感想文「あさ酒」原田 ひ香 (著)

 必要なら、いざって時に「サービスを買える」という都会の空気を感じさせる短編集だ。
 朝から酒を飲むというのは、交代勤務労働や卸売市場などの極端に早い仕事に従事する方々が仕事明けに一日の労働を慰労するためと言いつつ、それでも少し後ろめたい気分を伴いながらやる一杯だったりする。それは、これからのデイタイムを酔いとともに過ごすということであり、これからの時間を休息、睡眠に充てることを考えれば、飲んで寝るのだから当然ということでもある。
 見守り屋というサービス業の正体不明感とは、まさに現代社会とりわけ都会ならではサービス業、すなわち、何でも屋からの発展業態であって、やはり都会の複雑な社会構造と人間関係が生み出す需要であり、業として成り立つかと言えば、地方では考えにくい。わざわざ擬似的な「人間」関係の場に対価を払うのだから。探偵モノのようなドライな文章空間と店名を伏してもわかってしまうリアルの店に我々は親近感を抱いてしまわずにいられない。だからこそ思うのだ。「いつか都内で必ず、あさ酒をやるぞ」と。
 「ランチ酒」という原田ひ香の本当の代表作小説シリーズにケリを付けるための一冊でもあるし、この後のストーリーを発展させられそうで愛読者としては安心する。読者諸氏とランチ酒&あさ酒について語り合いたい。講談社のバタやんは読んでいるだろうか。


読書感想文「談志のはなし」立川 キウイ (著)

 天才の電磁波を直接浴びた人のエピソードだ。
 立川談志とは何か。言語化の鬼だ。理不尽、不条理、出鱈目、いい加減、悔しさ、情けなさ、みっともなさ、恥ずかしさ、辛さ、こうしたマイナスの状況や思いから湧くやり切れなさ、どうしようもなさへの向き合い方を言葉にした。そんな人はいない。だからこそ、不世出であり、天才の発する強烈な光に誰もがギョッとした。言ってくれるなよ、そんなことである。しかし、思考が先走る。鍛え上げた口舌よりも思考がどんどん先にいく。そのもどかしさと本人は戦った。
 では、弟子とは何か。スターには寄ってきちゃうし、集まっちゃう。どうしたものか、と思ったことだろうが、師匠ともなれば、親分である。弟子をどうにか一人前にしなくちゃいけない、という了見がある。師匠の了見、弟子の了見である。物理法則のような科学の絶対性のほかに、本来、絶対がないはずの人間関係において、師匠という絶対性や規範を持ち込み、仕込んだ。
 「これがあれば、生きられる」という価値観、生き様、判断基準の範を示した。落語とは何か、落語という伝統芸能の寿命を延ばした男・立川談志が残した言葉の数々は、ソクラテスではないか!と思う。そうした思想としての立川談志を理解するための第一歩の一冊だ。
 それにしても談志の「基礎はキチンとやれ」と文字助の「最後まで辛抱できたら勝ったも同じ」は、沁みるなぁ。


読書感想文「宗教と政治の戦後史 統一教会・日本会議・創価学会の研究」櫻井 義秀 (著)

 弱いとカルトに付け込まれるのだ。
 選挙に弱い政治家。社会情勢から置いていかれる社会運動。この状況を何とかしたいと頭を抱えたとき、カルトは忍び寄ってくる。ズブズブにしてしまえば、結果がどうなろうと、その後は、頼らざるを得なくなる。取り憑いて仕舞えば勝ちなのだ。
 成功体験を、選挙イベントや法案成立を通じて若手信者や構成員に体験させることで、「成功」を実感させているとも言える。もちろん、言論活動として、出版部数を飛躍させるのも自身や仲間内での喜びとなったのは難くない。そこでは仲間との紐帯を実感できているのだろう。
 社会経済の停滞がもたらす弊害とは、世の中のダイナミズムが失われることだ。するとどうなるか。社会階層や序列の固定化が進む。勝者、敗者が決まったままになる。これではいかんのだが、既得権益を持つ者にとっては有利だ。本書においては、衰えつつある既得権益者として描かれるのが、弱い政治家とカルト宗教である。だからこそ、蜜月関係を築こうとする。
 考えるべきは、誰が言っているかではなく、客観性のある事実と意見の区別をつけること。そして、決定を他人に委ねないこと。どんな宗教であっても、批判的に慌てずに見つめる冷静さを持つこと。そして、自分自身をも疑ってかかることだ。自分、騙されてないか。騙されてないと信じ込んでないか。実は、自分が決めたのだと信じ込まされてないか。
 宗教も個人の人権を守るために開かれ、その活動に説明責任を負えるようでなくてはならない。部分社会の法理をその団体へ委ね過ぎ、団体内部の規律問題については司法審査がどこまでも及ばないわけではないと、宗教の内部の者にも外部の者にも思わせなきゃならない。その門の向こうにだって市民社会の原則は届く。


読書感想文「トヨタ 現場の「オヤジ」たち」野地 秩嘉 (著)

 工長、組長たちの「オヤジ」の話しだ。
 「きつい、汚い、危険」の3K職場に人が定着するとは、人とカイシャを信じられる、そんな現場が大事だということだ。
 仕事は、人がする。人が集団で仕事をするなら、人と人との関わりが大事になる。職場でのインフォーマルな活動とは、集団における毛繕いのようなものだが、この毛繕いを大事にすることで培われるものがある。「人望」だ。呼称としての「オヤジ」とは、インフォーマルの最たるものだ。「何なんだよ、それ」とも思うが、職名でもなければ、敬称かすらアヤシイ。ただ、互いに呼ぶ方も呼ばれる方も、この符牒を使うことで、グッと距離感が近いことを確認することができる。
 面白い逸話がある。品質、稼働率が最悪だった工場を建て直すため、休憩時間にちゃんと休むことができるよう休憩所を徹底的にキレイにして、椅子を新品にし、設備をよくしたという。そうすると、モチベーションが上がって品質がよくなった。現場に通じているからこそ、労働環境を良くすることと品質向上とが、比例関係にあるとピンと来るのだ。
 いいものを作るのは製造現場だ。その製造現場がしっかりしているのが大事であり、そのために現場をまとめるのが班長や組長たち、いわゆるオヤジ。では、そのオヤジたちに求められる技能とは何か。「部下にわかりやすく教える能力」だという。当然、「きちんとやれ」「ちゃんとやれ」なんて、いい加減な言葉じゃダメだ。そのためには、ハートに響く言葉であり、「部下が理解してないのは、部下が悪いんじゃない。教えた方が悪いんだ」という気概である。また、トヨタは教育熱心な会社で、人を育てる教育ばかりやる、という。人を育てないと、いいものはできない。組長の仕事とは人を育てることに尽きる。
 数あるトヨタ本の中でも、上べだけでなく、そのキモを描いた稀有な一冊であり、会社組織における浪花節と義理人情の世界に触れた本でもある。この本を読んで知りたくなったことがいくつもある。パーソナルタッチ、PT活動の実践もその一つだし、企業内訓練校のトヨタ工業学園も覗いていみたい。何より、田原工場へ工場見学に行ってみたいぞ!


読書感想文「世界がかわるシマ思考――離島に学ぶ、生きるすべ」『世界がかわるシマ思考』制作委員会 (著)

 えらいことである。マチの思想とは違う文脈で生きるシマの人たちの考えが言語化されている。近代化によって切り捨てたはずの離島や半島などの不便な暮らしに価値や意義があり、まだまだどっこい生きている。しぶとい。
 シマに生きるとは、面倒臭いのだ。その島の他の住民とのつながりに左右されるし、相手は天候だったりする。全然、自分のペースにならない。そもそも打てば響くようなコミュニケーションが成り立つかどうかもあやしい。しかし、である。そもそもが余白や隙間だらけなのだ。周りと折り合いさえつけて仕舞えば、自分が企画者となって自分の頭で考えたことを自分で実現してしまうことは可能だ。むしろ、誰も考えてはくれないのだから、自分の頭で考えなくてはならない。他人任せにできないし、他人のせいにもできない。それに、反応は薄いかもしれないが、島の人は黙って聞いてくれていることだろう。そうした世間や世の中の成り立ちが、マチとは違うのだ。
 約400の本邦有人離島や往来に時間のかかる半島など、マチの尺度で計っていけない暮らしがある。効率さと便利さとスピードの競争の過剰さを追い求めることとは違う暮らしの設計思想の存在を認めることだ。世界は一つでは無い。むしろ、グローバル化する世界経済なんてのは、画一的なモノカルチャーなのであって多様性でもなんでも無い。
 都会人は思い知るべきなのだ。たまたまマチという基盤があって自分の価値が発揮されているに過ぎないのだ。そのことを俯瞰できるように、定期的にシマへ出かけ「全然役に立たない自分」というのを身に染みて理解すべきなのだ。その逆も然り。都会で、自意識過剰で自己承認欲求に潰されそうになってる者は、とっとと荷物を下ろしてシマ暮らしを始めるべきだ。
 せめて頭の片隅にでもシマ思考をインストールするべく。「活躍」やら「自己実現」などを横に置いて。


読書感想文「戦後政治と温泉-箱根、伊豆に出現した濃密な政治空間」原 武史 (著)

 温泉に浸かって静養し英気を養わないとやっていられないのだ。
 栄養摂取や健康管理の知識の普及も十分ではなく、一般家庭はもちろん、大企業や官公庁だってエアコンの普及していない時代なのだ。一国のリーダーたちに頑健さが求めれても人生50年の時代である。まして、粉塵が舞い、工場から煤煙が立ち上り、川は澱み海は汚れまみれの大都会・東京にいるのは嫌になっちゃうし、堪える。
 余燼をもって代えがたい吉田茂だから許されたとも言えようが、温泉そのものの効能は偉大だ。しかし、都内から温泉地である伊豆・箱根までの距離がもたらす効能も無視できない。わざわざ時間を掛けて隔絶された場所に行く、ということの意味だ。東京なら、有象無象が近寄ってくる。入れたくない情報、真偽不明なネタなどがいつの間にか舞い込む。これらを寄せ付けないための解は何か。物理的な距離を取ることだ。簡単に行けなければ、会いたい人にだけ会い、自分のペースで考えることができる。そう、主導権を握ることができる。
 空調が行き届き、携帯電話で必要なタイミングで自分からアクセスできる。突然の来客もアポなしでやってくることもほぼなく、スケジューリングが精緻な時代になった。夏休みの取得も必須化された。つまり、温泉地までの時空間の距離が必須ではなくなった。温泉に居続けなくても静養は主体的に取ることができるようになった。
 いま、政治空間はスマホの画面の中の文字や動画が、最も親密な場となった。休息する様子の発信も大事なコンテンツになった。
 戦後政治の人間関係を「距離」から読み解こうとする試みの一冊だ。歴代総理は個々に面白いが、石橋湛山のトンガリっぷりは、没後50年で湛山アゲのいま、知っておいてもいいのではないか。
 それにしても思う。あー、伊豆や箱根の温泉に行きてぇ。