読書感想文「大正天皇」原 武史 (著)

 明治の元老にとって、自分たちが担いだ君主が代替わりするということは、決して居心地のいいものではなかったということなのだろう。なにせ「明治は俺たちが作った」くらいの自負はある。変わってもらっちゃ困るのだ。世の中が変わってしまい、握った力を易々と手放すわけにはいかない。
 トップが変わっても、昨日と同じ明日が来てくれなきゃ困る。何なら、都合のいいトップほどいい。余計なことは言わず、物事に心動かさず、パーソナリティーなぞ発揮してくれるな、と思っているのだ。溌剌としていた嘉仁皇太子は、即位後、自在ならざる生活となる。「押し込め」である。権勢を握る者には、あくまで形式的であってくれるほどイイわけだ。
 気付かされるのは、君主とテクノロジーとの関係だ。鉄道、写真、活動写真など、新たなメディアや記録媒体、高速交通などのハイテクの登場は、君主と国民の関係をスルっと変えてしまう危うさがある。変えてしまったことが前例となり、それが「伝統」だと言われたりする。先般、宮内庁が始めたインスタはどんな影響を生ずるだろうか。
 石橋湛山が批判する「行啓を利用する地方官」の存在もあっただろう。それも含め、「個人」を擦り潰す権力機構に想いを馳せる一冊だ。


読書感想文「隆明だもの」ハルノ宵子 (著)

 ハルノ宵子とは達観と諦念の人だ。ジンブツいや傑物なのだ。
 そんじょそこらの「吉本主義者」は軽く踏み潰される。参ったなー、この吉本の長女は、吉本の考えをほぼ全て理解(本人は否定するだろうがそんなもの信じちゃいけない)し、何なら体現している。やれやれ、敵う相手じゃない。
 そんな彼女が語ってくれるのは、美しくもなく、合理的でもない、ケアの話しだ。オメーさんたちが慕っている巨人が朽ちていく様子とは、こーだったんだよ、と言っているのだ。キレイで含蓄のある物語を読者、とりわけ往年の吉本主義者は求めるのだろうが、そんな集団行動のような気持ちの悪いものには乗るわけにはいかないのだ。
 家族をプレイすることとは、を考えさせる一冊でもあるし、フリーレンが「英雄というのはどうしても後世の連中が勝手に美化していく。そしてそのうち原型すら無くなってしまうんだ」と言い放つように、ハルノ宵子は多子ちゃんとして美化される父・吉本隆明の偶像を破壊しに行っているのかもしれない。


読書感想文「鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折」春日 太一 (著)

 自由を求めた脚本家の人生だ。どこにも媚びず、へつらわず、自立した生き方だ。
 それは、プロとしてどう生きるか?という問いでもある。脚本家・橋本忍は軽々と、シナリオを書く際の決め手の『三カ条』があると答える。「いくら稼げるか」「面白いかどうか」「名声が得られるか」。
 俗っぽいのではない。俗だ。だが、時代状況として伸びる一方の産業としてのエンタメ・映画をただただ好きなだけの者が、才能を見出されて、そこに人生に賭ける際、小さくまとまっていてどうする?との問いだ。それは若造が「成功してやる!」とのし上がろうとする個人的な動機だけでなく、実はシナリオライターとしての社会的地位の問題でもある。
 だからこそ、先ほどの三カ条を見返して欲しい。自分が「好きかどうか」は入っていない。あくまで、自分なりに客観的にみて、カネと価値と評判を測っているのだ。頑なになってはいけない。自身のこだわりが気になるようなら、助言を求めるべきだろう。
 そして、一人だろうが、組織だろうが、「気迫」が求められるということだ。緩むと間違う。プロの矜持を知る一冊だ。


読書感想文「頭のいい人が話す前に考えていること」安達 裕哉 (著)

 「謙虚に聞こう」と考えているのだ。
 この謙虚になる相手というのは、クライアントだったり、上司だったり、先輩や同僚、部下ということもあるだろうし、言葉や歴史、シチュエーションそのものだったりもする。謙虚な態度や振る舞いのもとで発する言葉が効き目があるということだ。
 そうした、半ば感情労働や場を読む力が発揮されることによって表現される「頭のいい人」というのは、「立派な人」「ちゃんとした大人」ということになる。だが、「立派な人」「ちゃんとした大人」でいることで、得ようとする信用や信頼は、果たして「頭のよさ」そのものを示すのだろうか、という疑問が湧いてくる。
 謙虚でいることは攻撃をしてこない人なので、安心安全である。この安心させてくれる人とは、評判のいい人であり、頼りになる人である。そんな人を馬鹿にしたり、腐したりはしない。一方、ただの「頭の良さげな人」はバカにされる場面もあるだろうし、陰で罵られたりすることもあるだろう。つまりは、裏でバカにされないような安全な「頭のいい人」が話す前に考えているということである。


読書感想文「まいまいつぶろ」村木 嵐 (著)

 ダイバーシティインクルージョン。いや、エンパワーメントか。
 障害を持った者への罵りを、時代小説という舞台を借りて日の当たる場所へ曝け出してみせた。実は、そうした者の誰もが好き好んで腐そうとしているわけでは無い。自分の身の振り方を案じて「使い物にならぬ」、「役に立たぬ」と攻撃するのだ。それほどまでに、人は弱い。
 己を消して身を尽くした結果、かえって気持ち悪がられて疎まれて受けてしまう攻撃とは、理不尽さを堪える聖職者か敬虔な信者に対する卑劣さそのものである。
 そうした「尽くす」態度で表されるのは、ドン引きされてしまってもおかしくない「美しい」関係のファンタジーであり、あえて「美しさ」の箱に入れてでも、機が熟すことを待つ、急いて結論を求めない、そうした時間を掛けて待つということが判断する際には大事でもあるのだ、と描きたかったということなのだろう。それとともに豊穣な内面は誰もが持っているということもだ。
 「手妻」を使うような者の登場は、世の中を変えてしまうこともある。そのとき、手妻遣いは己を律することを心せよ、ということでもある。


読書感想文「なぜ、おかしの名前はパピプペポが多いのか? 言語学者、小学生の質問に本気で答える」川原 繁人 (著)

 言語学最前線である。
 言葉は変化するとはよく言われるし、実際、変化が起こるのは、発する言葉の伝達速度アップと効率化の欲求の表れであったといえそうだ。社会集団が安定化し、閉じた関係性の中で意思や意味を伝えるようになると、省略と省エネが起きる。「最悪(でも)、言わんでもわかるやろ」となる。何でそうなるか。面倒だからである。言語化は頭を使うし、意図が伝わったかを確認するには「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ」るのである。つまるところ、言語よりも動画・映像で「わかる」のであれば、言葉は省かれる。
 明治期に方言が排他的な扱いを受けたのは、そもそも出身の違う新政府高官同士のやり取りが不便だったからだろうし、昭和の高度成長期にNHKアナウンサーの言葉遣いに注目が集まったのは全国から集まった若者が都会での生活で言葉に苦労したことがいえるだろう。
 翻って、現在も社会の価値観の多様化と国際化で、「言って聞かせて」に一層、重要になることだろう。概念と意味も伝える必要が出てくるからだ。
 また、ChatGPTの出現は、実に有益な「もっともらしさ」のある知見を与えてくれる。世の中、結構、それで十分だったりするので、満足できちゃったりする時代にあって、初等教育から学ぶのが「こくご」でいいのか?「ことば」なのではないか?という疑問も湧いてくる。
 この本の中で質問する小学生と一緒に楽しい時間になるはずだ。
 そうそう、漢字という「言語といわば独立に、文字が存在する」との橋爪大三郎の指摘は刺激的だった。


読書感想文「化学の授業をはじめます。」ボニー・ガルマス (著), 鈴木 美朋 (翻訳)

 とびきりハードで不寛容で未成熟な若くリベラルなアメリカでのおとぎ話だ。
 女はいつも戦っている。負け戦であってもだ。だから、ページをめくるのは重くつらい。従順で健気で素直な「女の子」であることを当然に「定形」として求め・求められるという社会規範にボロボロになりながらも立ち向かうリケジョが主人公だからだ。規範からはみ出てしまうと、お転婆、じゃじゃ馬、さらには阿婆擦れと呼ばれてしまう。定形以外の個性は認められない。のび太を含め男子はそれぞれ個性ある3人なのに、女子はしずちゃん一人に典型として集約されている。クレヨンしんちゃんのノノちゃんと比べてみるとその異常さが際立つ。
 ケミストリーとは何か。揺るがしようの無い原理原則であり、モノゴトの理屈である。そして、物性が移ろうことを説明可能にし、明らかにしようとする一連の行為である。だからこそ、主人公は呼びかける「化学とは変化である」。理不尽さに服従するのではなく、化学を追うこととは、立ち向かって進むということであり、すなわち「勇気が変化の根っこになる」と説くのだ。
 時代は遅々としていてもどかしく、そう簡単には進まないかもしれない。それでも前進するのだ。キャルヴィンを巡る旅のように。