読書感想文「事務に踊る人々」阿部 公彦 (著)

 事務とは、手続きであり、プロトコルであり、フォーマットであり、プロセスであり、契約であり、説明責任であり、会計であり、ブロックチェーンである。要は、「正しさ」を求める一連の行為である。
 この一連の行為において我々は「正常」でなければならず、まどろんだり、モヤがかかっていたりしてはいけない。パッキリキッカリ明晰でなければならない。こうした事務的であること=官僚的であることとは、正しさがもたらす恩恵を受ける便益のためであって、普遍性のある行為だ。元来、求められてきたのだ。
 しかし、事務があることが当たり前な時代になって、事務は嫌われることになる。形式的であり、曖昧さが許されず、合目的的一辺倒なのだ。言わば、堅苦しいのだ、事務とは。人間はグウタラで出鱈目でいい加減でだらしなく、テケトーなのに。
 人間とは、人間味のある愛すべき存在である一方、仕事をする主体である。仕事の成果とは計量的である。報酬は貨幣だからだ。
 これまで、あくまで「処理」されるものでしかなかった事務そのものがテーマとなったことに、フフッと思ったりする人は案外、多いかもしれない。


読書感想文「地雷グリコ」青崎 有吾 (著)

 痛快・天空人ゲームバトルである。
 ゲームの要素とは、遊戯性と射幸性、そして全てのプレイヤーを制するルールである。なので勝負を分けるのは、ルールのハックである。とは言えである。できるのか?易々と勝ち負けを分ける勘所を読み切り、対戦相手の手と判断を見定め、その緊張の場において向かい合うのだ。計算であり思考力である。神々のレベルかよ。少なくとも知恵のレベルは天空人だ。
 登場するもともとのゲームは、グリコ、神経衰弱、ジャンケン、だるまさんがころんだ、トランプだ。当然、そのままのルールじゃない。ルールを付加し、複雑にし、ちょっとやそっとのゲームじゃなくしている。その知恵よ。
 読者は揺蕩うとハイレベルのルールメイキングのストーリーに身を委ねて、ただただ熱いゲームバトルを眺めるといい。漫画のセリフなしのコマ割りで登場人物がバチバチする様が目に浮かぶはずだ。そして勝負の決着シーンは清々しい。
 高校生の対戦モノとして十分に楽しい。そうだ、一言だけ加えておこう各ゲームのルールを覚えようとしちゃいけない。覚えきれないよ。


読書感想文「この世にたやすい仕事はない」津村 記久子 (著)

 仕事と居場所と感情の話しだ。
 働くことに伴って少なからず、感情のやり取りが発生する。それは達成感や感謝を向けられることといった正の面もあるし、ただただ疲弊したり夢中になってしまうあまり前後が見えなくなる負の面もある。
 もっとも、煩わしいだけの人間関係もあるし、事業所として軌道に乗らず廃業してしまうことでその職場が無くなることだってある。
 主人公の得た5つの職場で過ごした時間は、社会復帰のためのモラトリアムでありリスタート前に自分を正視するための時間であった。ただただ失業保険切れ後の身の処し方をネガティブに窓口で吐露しかできないところからスタートしたが、妙な経験や手応え、人間関係を築いていった。
 人生というのは、瓢簞から駒が出たり、人間万事塞翁が馬だったりする。わかるようでいてわからないものだ。だからこそ、恐ろしさや摩訶不思議さなファンタジーを主人公とともにトレースすることで、我々が拘泥している目の前の優柔不断で判断停止しているものから、リアルで確かさのあるものへと向かっていけ、ということなのだろう。


読書感想文「チーム・オルタナティブの冒険」宇野 常寛 (著)

 子ども向けのテレビ特撮ヒーロー番組の放送時間は、なぜ30分なのか。
 子どもの集中力の持続時間の長さでもあるように思うが、実は違うだろう。一話で子どもをテレビの前に釘付けさせ続ける制作者側の力量の問題でもあるし、実は、視聴者である子どもは保護者たちの都合で案外と忙しく、画面の前に釘付けにさせてもらえる定常的な時間は30分程度なのだ。
 この一話30分間の世界で捨象されてしまった話しの前提や日常のあれやこれやのディテールを大人相手に全開にした一冊だ。よくもまぁ、自意識まみれの主人公を創作したものだ。「できる子」の世界を描くために小説という表現手法と文字情報空間の媒体を使ったからこそ為せるものであり、これが映像だと脱落した者も多かったはずだ。それと同時に「大人をバカにし、新しいことや他人と違うことをやりたがる」という痛いほどの凡庸さを惜しげも無く表現してみせたことは、物語のラストスパートに大きく寄与した。
 SF・特撮空間を通じて自意識やコンプレックスを昇華させるのは、日本だけのお家芸ではなく、一連のマーベルやハリウッド作品にも存在する。この場合の自意識とは、評価の客体である自分を意識することだ。特撮の基礎知識は要求されるが、コミュニケーションそのものの客観視とAI時代のマルチな視点の持ち方について、じわじわと読後感が広がる一冊だ。
 ところで、私には夢がある。宇野とNHK魔改造の夜」の評論をしたいのだ。なぜ、勝つ企業があり、そこがとった戦略と実践を解くのだ。ぜひ。


読書感想文「硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ」酒井 聡平 (著)

 気骨と使命感を帯びた記者の歩みだ。まるで講談ものに出てくる仇討ちの浪人のようではないか。
 物事を「終わったことにしたい」「面倒なことは避けたい」という勢力は確実に存在する。そのことを指摘したり、迂闊に本質を追求すると逆上したり逆襲を受けたりするので注意が必要だ。人生どこで逆恨みされるかわからず、また、どこに落とし穴を掘られているかわからない。くわばらくわばらである。
 戦死者の遺骨収集・帰還が、そのことに人生を傾ける人でなければ成し遂げられない個人の人生を磨滅する取り組みとなってしまっている。未踏峰の登山や人類がたどり着けていない地点への探検じゃないんだ、そんな負担を遺族や遺児に負わせていいわけはない。
 これは市民が自らの手で国家を作っていないことに尽きるのではないか。国家として当たり前に記録を残すことや、国家としての戦いに命を落とした者へ報い、責任を負うことが、どうにもだらしなく、できていないのは、我々が当然に歴史を大事にしたり、国家の担い手として自覚のもと、主権者として政府に要求してこないことが原因じゃないか。「戦争をすることにしたのは僕らじゃないです。関係ないです」と歴史の文脈から語るべきことへ主体性・当事者性が欠けているのではないか。
 謎解きでも陰謀論でもない。市民として「ちゃんとしよーぜ」と語ることである。


読書感想文「ルポ 無縁遺骨 誰があなたを引き取るか」森下 香枝 (著)

 死とは忌もの、禁忌である。日常生活からは憚られる。なので、通常の日常原理とは違う物差しで物事が動く。「身内に不幸が」と言えば、「そりゃ、しゃーない」となる。
 身内すなわちプライベートな冠婚葬祭として、これまで家族単位で死が扱われてきたものが、パーソナルなものになって、いよいよ旧来の扱い方、捉え方では、死に伴う遺骨や墓、財産の取り扱いが行き詰まってきた。人は皆んな必ず死ぬ。看取られて死ぬこともあれば、あれれ、と後から気づくこともあるし、だいぶ経ってから見つけられることもある。問題は、死んだ後だ。驚いた。引き取り手がない場合、墓地埋葬法による葬祭と生活保護法による葬祭扶助が市町村の負担(支出と手間の両面で)として重くのしかかる。そして、いったん死因不明で警察の世話になってしまうと時間も手続きも面倒で、「いかに異状死として警察に届けずに済むように、かかりつけ医に死亡診断書を書いてもらえるか」が大事になるという。
 社会経済の最小単位が個人となっている以上、立法の問題として動きが出始めていることを歓迎したいし、そうした現状を踏まえ、相続に関わる業務をする全ての士業には必読の一冊だと思う。


読書感想文「ユーザーファースト  穐田誉輝とくふうカンパニー  食べログ、クックパッドを育てた男」野地秩嘉 (著)

 ビジネスをどう作るか。
 つまるところ、どんな価値を提供するかに尽きるのだが、穐田は自分の目で見て、自分の頭で考え、実行してみせる。当たり前のようだが、案外できていないものだ。なぜか。人の風説や評判、友人・知人の話しを信用してコロっと落ちる。面倒くさくなって自分で確かめるず、曖昧にしてしまう。そして、創意工夫や作り出すモノやサービスがどんな問題解決となるか、どれほど便利になるか、どれほど安くなるか・どれほど利潤を作り出すかをとことん考えない。さらに、リスクをとって挑戦もしない。そんな人たちに比べると、穐田とはゆるがせにしない人だ。疑ってかかるし、おかしーなー、どーなってんだよーと考える人だ。
 得難い失敗をいくつも経験しながらも、運良くそこから立ち上がってこれたのは、普通の家庭の子と言いつつ、愛情を注がれた記憶が、逆境にあっても折れてしまうことの無い心棒を育んだからでは無いだろうか。「インターネットの本質とは?」の答えが「検索」であり、それを体現してみせたのがグーグルだったように、インターネット・サービスとは?を生活の不便を無くすことだと穐田は提示している。
 しかも、「運と気合い」を使いながら。