なぜ「あしたがある」のか


 最新の物理学でもなければ,宗教でもない。もちろん,「とんでも」スピリチュアルやいんちき占いの類いでもない。
 なぜ,「あしたがある」と言えるのか。と言えば,的確な表現となろうか。子どもには明日がない。いや,もとい,明日の予定を考えず,全力で今日を生きる。いまのやりたいことに夢中になって生きる。当然,「生きがい」やら「やりがい」などは考えない。今日が全てだ。子どもはそれでいい。偶然とワンダーの出会いをもとめて,それが愉しくて生きる,それが子どもであり,よく言う「子どもの心を持った大人」だ。
 投げやりや逃避ではなく「あしたがある」と言うためには,現状の把握とやるべき作業量,目標までのロードマップがイメージできていることが必要だ。もちろん,意識せずともよい。ただし,今日と連続する明日,明後日,明々後日,一週間後,10日後,一月後,3カ月後,半年後,一年後としての「あした」があってこその「あしたがある」なのだ。
 無計画に明日を,今日と不連続にしかイメージできず,ヤタラメったら今日に全力投球してしまう。そういうのは,体力に任せて,痛い目に遭いながら,がむしゃらさだけが取り柄デスの若造である。今日のがむしゃらがどう成果に結びつくのか,また,がむしゃらで体力を使い切ってもいけない。「あしたがある」のだ。自らと他者からの期待に応えるべき「あしたがある」のだ。ベストパフォーマンスを出すべき明日が。
 「あしたがある」。こう言えるのは,重いゾ。大人のセリフだ。