シャワー


 今日,楽しみにしていたエリンジウムの苗が,年寄りにプランターに植えられた。
 玄関先の風除室(サッシドアで外気と玄関を遮る空間。ガラス室状のものが多い)に,苗をポットに入れたまま置いておいたところ,無い。ウォーキング前には,あったはずだが,無い。
 エリンジウムは,昨年夏,息子と海に出かけた際,途中の庭のキレイな道の駅で,とびきり目に入ったものだった。和名のルリタマアザミとして写真やわずかな植えられた実物で知っていたが,多量の花がつくる印象は,「エリンジウム」として強く残った。
 帰ってからネットで調べ,宿根草の夏の花であることを確認し,翌夏の楽しみとした。秋植えも可能とのことだったので,知り合いの苗屋に在庫を確認したところ,今シーズンは品切れ。他の苗屋に在庫があるかもとのことだったが,翌春に入荷予定とのことだったので,入荷次第の連絡をお願いした。
 今年は,堆肥も仕入れ(実は,3月末に待ちきれなくて一度,堆肥販売の牧場を訪ねている),用意を整え,知り合いの苗屋からの入荷の案内をもらい,早速の購入だった。
 北海道の農作業は,「カッコウの声が聞こえてから」がセオリー。しかも,そこそこ耐寒性があるとはいえ,夏の花。じっくり,待つことにした。
 連休に入ってからのウォーキングのテーマは,カッコウの声を聞くこと。今月後半がそのシーズンだとわかっていても「暖冬だったから」と勝手な理屈をつけ,耳をそばだてながら歩く毎日だった。
 こうして,苗をおろそうと待ちに待っていた中でのエリンジウム勝手に植栽事件だった。


 唖然である。憤りであり,地団駄である。


 ほぼ一年越しの楽しみが吹き飛んだに等しい。あってはならないことだ。ポットに入った苗には水をやって面倒も見ていたというのに。おもちゃを取られた幼児の感情の爆発に近いものを感じた。押さえきれない,と同時にやり場のない憤慨を抱えつつ,ウォーキングを終えて汗まみれのため,シャワーを浴びた。


 相手は年寄りである。
 まずは,こう思った。


 年寄りの好きな苗を年寄りの手に届く玄関先の風除室に置いておく方が悪い。
 もし,触られたくないのなら,「触らないで」の旨,標記しておかない方が悪い。
 次いで,こう思った。


 全部とはいかないが,シャワーが感情の大部分を洗い流した。



 宿根草なので庭におろす必要があること,小さなプランターでは間隔が狭すぎること,何より,大きく育つ前に苗植えそのものを自分の手でやっておきたかったので,年寄りに「せっかく,プランターに植えていただいたのだけど,宿根草で,70〜80cmまで育つので庭におろす。本当は,もう少し暖かくなるまで待つつもりだった」と言って,植え替えた。


 キレることもできた。
 キレることは簡単だ。
 「聞こうと思ったがいなかった。葉が黄色くなっていた」。とても,まともな言い訳ではない。大人として当然あるべき確認や断りも無しに,自分の中のイベントを台無しにされ,しかもそれへの謝りも無いことに対し,簡単にキレることはできた。
 だが,キレることそれ自体は道具だと思う。キレることで得られるものとキレた後の寂寥感を計りにかけて,どうしても必要な際にキレるべきだ。

 事態は十分ではないが,修復できた。いや,まだ,修復できる状態だったからキレることをさけることができた。
 いや,もっともっと,修復の難しい状況が今後,一層,自分を襲うに違いない。その一つ一つをどこまでも飲み込んで,キレない自分をつくりたい。それが重要な目標だ。



 山本七平は言う。

 私の恩師ですが,塚本虎二先生が「日本人の親切」っていう面白い話しをしておられるんです。
 (略)この先生が若いころ下宿していた家のご老人は非常に親切な方で,ヒヨコを飼ってたのですが,冬あまりに寒かろうといってお湯を飲ませたところがみんな死んでしまったという。先生は「君,笑ってはいけない。これが日本人の親切だ」,といっておられますが,これがですね,まさに日本的な親切なんです。ひとりよがりなんですね。ヒヨコぐらいですとまだいいんですが,新聞の記事に保育器の中の赤ちゃんが寒かろうといってカイロを入れて殺してしまって裁判になったという悲しい例もあります。
 学問的にいいますと,こういうのは感情移入というんです。自分の感情を相手に移入してしまう。そこにいるのは相手じゃなくて自分なんです。自分は水を飲むのは冷たくていやだ。するとヒヨコも嫌だろうと勝手に感情移入をする。ああいう箱の中に入れられてカイロがなけりゃ寒かろうと,酸素を入れてある箱の中にカイロを入れる。爆発して赤ちゃんが死んでしまった。過失致死罪かなんかになりまして,まあ情状酌量になりましたけど,裁判官はこんないやな裁判はこれまでなかったという談話を発表してるんです。これはですね,自分の感情を充足するための行為と,相手に同情するっていうことに,区別がつかないからなんです

山本七平著 「比較文化論の試み」p.20〜21


 そうだ。僕らはこうしたシャワーのように降り注ぐ「日本的な親切」に囲まれて,これからも生きる。


比較文化論の試み (講談社学術文庫)

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