ウチの犬は目が見えない


 ダックスフンドを飼っている。はやったミニチャア〜という犬種だ。子どもや連れ合いがねだり,やってくるというありがちなパターンで我が家にやってきた。もう数年が経つ。視力はほぼない。目の色が中心部から大きく青白く,角度によっては光でエメラルドグリーンに見える。おそらく,進行性網膜萎縮症というものでこの犬種には比較的多く見られるものらしい。最初に,彼女の異常に気づいたのは連れ合いで,顔の前で手やモノを動かしても反応しない,と言い出した。犬ってもともと目が悪いんだろう?ぐらいに思っていたが,口先でくわえていたボールを離しても,目視で確認することはできないことで,決定的なものと認識せざるをえなくなった。ただし,食べる・寝る・遊ぶ・排泄するの基本的な生活で大きな支障はない。それでも高度な遊びは無理だし,外界への恐怖感があるせいか,家の廻りに出ることは喜んでも近所をまわってくるような散歩には出たがらない。これらを除けば,音と臭いの世界で十分やっている。帰宅すると,はしゃいで腹を見せ“かまえ”と要求するのは,ほかの視力のある犬と変わらない。なので,人から見た場合,犬として何かが欠けているという風には見えない。
 犬を飼うことで思い出すのは,赤瀬川原平宅に犬がやってくる話しだ。

 うちに捨て犬がやってきたわけです。犬を導入してしまったのです。本当は自分自身がもう少し強ければ「犬は飼うな」と断れたはずなのですけれども,こんなころころの小さい捨てられていた犬がいて,「これを飼いたい」と言われるわけです。私は弱いから,それにそんなころころの小さいものを怖いとも言えなくて,結局は飼うはめになって,しばらくは不機嫌でした。私自身は世の中に犬が一匹もいないほうがよいと思っていましたから。


p.11 「都市にとって自然とはなにか」 赤瀬川原平ほか


 私も「イヌ派」,「ネコ派」で2分されるならば,断然「ネコ派」だ。ネコはいい。何てったってニャンコである。ニャンコはニャンコであるが故に溺愛の対象となる。ニャンコは理屈ではない。犬はその点,理屈である。人とイヌとの長い歴史のなかで築かれた関係が云々。主従関係が云々。団体行動とリーダーが云々。そうしたイヌ・ワールドのなかで勝手に人間に当てはめられた役割をこっちが演じるのが堪らなく嫌なのだ。ニャンコには「素」のままの自分で向き合える。それがいいのだ。しかし,まぁ,イヌがいるのが日常にはなった。

 結局,いまは本当に犬を飼ってよかったと思うのです。犬を家庭内に導入するというときには渋々という感じだったのですけれども,それを拒否できない弱い人間だから自分も情けないと思っていたのですけれども,いまは弱くてよかったなという感じです。あくまで自分の考えを強く押し通していたら,こういう犬の広がりは持てなかったわけです。その点で実にありがたい。


p.12〜13 「都市にとって自然とはなにか」 赤瀬川原平ほか


 「犬を導入する」という表現がいかにも赤瀬側原平で,イヒヒと顔を崩しながら読んでしまうのだが,「犬がいるという日常」というシステムを導入するとでも言い換えるとよいだろうか。私の場合は,「目が見えない犬を導入した」ということになるのだろう。たまに勢い余って壁に頭をぶつけたり,何かをねだるために後ろ足だけで立ち上がった際,前足はこちらに届かず空振りしてしまったり,と,ボールがとれないだけではない日常の幾つかのシーンで目が見えないことを実感させられるが,そうした現実とともに生きる命と一緒に暮らすことで何かしらを私自身,学んでいるのだろう。



都市にとって自然とはなにか (人間選書)

都市にとって自然とはなにか (人間選書)