ダーウィンと路上観察


 「周回遅れシンクロ」と題したエントリーを10日ほど前に書き,「フューチャリスト宣言」を手に取った。実際は,別な本と同時並行でしかも,合間合間に読んでいたこともあって,やっと昨日読み終えた。その中で,

梅田 僕自身は,好きなことを一つずっと深堀りするというよりも,世の中を俯瞰して理解したという気持ちがある方で,理解したい対象全体の正規分布がこうなっているんだとか,いつもそういう風にモノを考えがちです。(略)
 ちょっと手前味噌になるかもしれないけれど,たくさんの分野に興味があって,関係性に興味がある。俯瞰してものを見て全体の構造をはっきりさせたいという志向がある人は,これからの時代に有利になってくる気がします。
(略)
茂木 そうですね。過去の例でいうと,チャールズ・ダーウィン(1809-82)はまさに俯瞰性の人でした。あの人はもちろん,自分でビーグル号に乗ってガラパゴス諸島に行ったりしていますが,実際には驚くほど多種多様な文献を読んでいた。ダーウィンは案外,インターネット時代の人にイメージが近い。


p.110〜113 「フューチャリスト宣言


という,このダーウィンの「自然誌」の視点に関して私は,以下の文章を思い出した。

 昔の学問は,多く路上観察の結果だった。路上というと正確を欠くが,路上や野山を歩いて目に映るものを観察し記録することから始まっている。生物学も地理学も民族学も気象学もその元をたどると万物観察の学としての博物学に行き着く。
(略)
しかし,貿易収支に関係無い人文科学的な領域は,ここいらで専門分化は一休みして,いっそ博物学まで先祖返りする手がある。もう一度,歩いて観察するところから始めるのだ。路上観察の四文字があまりに非アカデミックというなら,フィールド・ワークと言ったらいい。
(略)
自分の頭の中にズッシリ詰まった机上の知識になんとか路上の風を吹き込んで,活きた目玉を回復したいからにちがいない。どんな思想も文学も,目玉が死んだらおしまいだ。博物学くらい目玉の鍛錬にいい学問はない。


p.25〜26 「路上観察学入門」〜路上観察の旗の下に 藤森照信


そう,博物学に先祖返りし,対象をとらえる「目玉」でもって,全体を俯瞰し構造を明らかにしていくこと,まさに,フィールドワーク。ダーウィンの実践ではないか。しかも藤森は「ここいらで専門分化は一休みし」と,既存のフレームの解体を説く。それこそ,id:umedamochioの説く「脱エスタブリッシュメント」に通じる話ではないか。
 藤森がこう書いたのは,1986年。期しくも,マイクロソフトがレドモンドに移った年である。


路上観察学入門 (ちくま文庫)

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フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

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