「情報」を捨てて道を見つける。


 耄碌したんだろう,10年ほど前の記憶がいろいろと曖昧になっていることに気付かされる。えーっと,あれはどこで見たんだっけな。確か,この雑誌で見たような…。で,探し出せない。それどころか,手掛かりが曖昧すぎて目的物そのものに勝手な記憶が広がってしまっただけのことなのか,いい加減なイメージでうんざりしてしまうことしばしば,という有様だ。
 裏返すと,探しさえすればどこかにあるんだから,という甘い期待が表出しているのだ。これまでは。だとするならば,「捨ててしまえば…」とよぎった。これまで(いや,今も),情報を溜め込むことで,自分を確認してきていたように思う。あちこちに山積させている資料の山が,自分であることの証なのではないか,と。でも,これだけ思い出せないのだとすると,いろいろと捨ててみようか。
 多分,捨ててしまっても影響は無い。自分自身が薄くなったり,なにか,根無し草になってしまうのではないか,という恐怖の裏返しだったのかもしれない。過去が可視化されること,資料のカタチで物質化されていることが自分の拠り所としていたのだろう。
 「イマ」の自分を信じていいのかもな。いや,どうせ自分に裏付けも何も無いことに変わりはない。「イマ」に賭けて,全力を出すためと言ってみようか。