福島県立大野病院事件と行政


 結論めいたことを書くわけではない。すでにマスコミでは話題にのぼらなくなった。現時点での結論は地裁が出した。このことを受けて書くわけだが,医療と司法,マスコミの関係を書く気もないし,その能力もない。手に余る。ただ,この事件のいくつかの報道の中で,一つ気になる部分があった。

 福島県大熊町の県立大野病院で2004年、帝王切開で出産した女性が死亡。赤ちゃんは無事生まれた。県の調査委員会が医療過誤を認める報告書を公表、これが捜査の端緒となり、県警は06年、子宮に癒着した胎盤をはがす「はく離」を無理に継続し大量出血で死亡させたとして、業務上過失致死などの疑いで、執刀した産婦人科医を逮捕した。「医療が萎縮(いしゅく)する」と医療界は猛反発。第三者の立場で医療死亡事故を究明する国の新組織が検討されるきっかけにもなった。


ニュースの言葉:大野病院事件/社会


8月20日静岡新聞にこうある。この「県の調査委員会が医療過誤を認める報告書を公表、これが捜査の端緒」だ。施された医療には,過誤がありましたよ,と県が言ったそうだ。もう一つ,コラムを当たってみる。

 遺族の感情を優先して考える風潮を戒める判決が20日、福島地裁から出た。4年前、帝王切開で出産した女性が手術中に死亡し、それから1年以上たって担当した医師が業務上過失致死と医師法違反の疑いで逮捕された事件。判決は無罪だった。
(略)
 確かに遺族の落胆はある。法廷では、亡くなった女性の父親が、無罪と聞いて肩を落としハンカチで目元をぬぐったという。
 しかし、医師が善意の医療行為を尽くしても命を救えないことはある。「それを注意義務違反と言われて罪に問われる時代になったのか」「難しいお産は別の病院に回してしまったほうがいい」−−全国の産科医の間に広がる事なかれ主義に歯止めをかけなければいけない。「萎縮医療」などという寂しい言葉は追い払わなければいけない。
 「そもそもメディアにも責任がある」。医師たちの不信と戸惑いは、遺族感情に偏りがちな私たちの報道姿勢にも向いている。(憲)


産科医 - 47トピックス


マスコミ自己批判ではあるが,ここで出てきた「遺族の心情に配慮」したことと先ほどの県の調査委員会の報告書について,考えさせられる。誰かが悪い,いや,誰かを悪いことにしなくては落としどころがつかない,ということなのか。報告書に当たってみる。

2 事故の要因
(1)癒着胎盤の無理な剥離
(2)対応する医師の不足
(3)輸血対応の遅れ

3 総合判断
今回の事例は、前1回帝王切開、後壁付着の前置胎盤であった妊婦が帝王切開
手術を受け出血多量、出血性ショック、循環血液量減少その結果心筋の虚血性変
化をおこし死亡に至ったと思われる。
出血は子宮摘出に進むべきところを、癒着胎盤を剥離し止血に進んだためであ
る。胎盤剥離操作は十分な血液の到着を待ってから行うべきであった。
循環血液量の減少は輸液(輸血も含め)の少なさがある。他科の医師の応援を
要請し輸液ルートを確保して輸液量を増やす必要があった。
手術途中で、待機している家族に対し説明をすべきであり、家族に対する配慮
が欠けていたと言わざるを得ない。


報告書 県立大野病院医療事故について
県立大野病院医療事故調査委員会
平成17年3月22日


「癒着胎盤の無理な剥離」とは,どこで見たかと思えば,判決要旨で裁判官に否定された検察官の主張だ。

 検察官は、一部の医学書と検察側証人の鑑定による立証のみで、それを根拠付ける症例を何ら提示していない。
 検察官が主張するような、癒着胎盤と認識した以上ただちに胎盤はく離を中止し子宮摘出手術に移行することが当時の医学的準則だったと認めることはできない。被告が胎盤はく離を中止する義務があったと認めることもできず、注意義務違反にはならない。起訴事実は、その証明がない。


大野病院事件判決要旨 福島地裁


マンパワー不足については,判決要旨には見られない。争点にはなっていないということなのだろう。輸血血液の確保は,大量出欠のコントロールと予見であるから「無理な剥離」の妥当性に含めて考えるべきだろう。
 すると,この報告書が総合判断するのは,「手術途中で、待機している家族に対し説明をすべきであり、家族に対する配慮が欠けていたと言わざるを得ない」ということだ。むしろ,これが言いたいために,この報告書が存在するのではないか。
 当時の福島県病院局において,どのような意思決定があったのかは,わからないし,どのような経緯でこの報告書がつくられたのかについて憶測するのは適切ではないだろう。だが,この報告書があることで,遺族,医師,日本の医療界そのものを含めて関わる全ての人を傷つけたことになっている現状とは「遺族の心情に配慮」したことで,引き起こしてしまっているのだとしたら,皮肉では済まない。行政として,専門的知見とどう関わるかの根本問題が問われることであるし,責任は重い。気の毒な事例に,中途半端に倍賞で済ませることが本当に正しいことなのか。みんなツラいのだ。事実を事実として受入れられないでいる遺族の気持ちにどう寄り添ってあげるのか,そこを忘れちゃいないかい?と問われているのではないか。
 私は,いま,「仕事ってのは,人がやるんだよ」の言葉をかみしめている。