花見がしたい


 ここ数日,来客に,桜がキレイになりましたね,と続けて言われた。そうか,桜の頃だったよなと,あらためて思い,昼休みに,桜を眺めて歩いた。



 言い古されているところだが,オッサンになって桜がキレイに感じるようになった。年々,しみじみのしみ込み度合いが深くなり,今年はついに待ち遠しいほどになった。
 桜のキレイさは,因習やしきたりの世界で育った子どもでなければ,25才までは関知するのは無理だ。いや,むしろ,モダンで習わしのない核家族に育ったものほど,オッサンの入口に立ったとき,ハッと桜の美しさに気づく。末っ子同士の両親の子に生まれ,仏壇のない家に育った私は,桜を本当にキレイだと思ったのは,27〜8だった。それまでは,桜をきれいだ,という奴の気持ちがわからんと公言すらしていた。面目ない。

 今日,歩いていると,花見客がいた。
 夫婦もいたし,



 じーさん,2人もいた。





 花見がしたい,と口に出る。
 なぜ,花見か。

 桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは「孤独」というものであったのかもしれません。なぜなら,男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。


坂口安吾 「桜の森の満開の下


オッサンになるということは,自らの孤独を意識し,孤独と向き合う場面と出くわすことだ。子どもに取って退屈なだけの桜の下で,ただただ,キレイだとつぶやく,その孤独を告白するために,花見を求める。つぶやくためだから,花見は一人でも,大勢でもいい。
 だから,花見のときのオッサンのつぶやきを聞き返してはいけない。花見なんだから。


 そういや,遠足の子どもたちの列も見た。



坂口安吾 (ちくま日本文学全集)

坂口安吾 (ちくま日本文学全集)