「花まつり」のお寺に臆して入れなかったよ。


 「まったく,『生かされてる』とか思わないんですか!大きな山を見たりして,キレイだなーと思うとか!」と憤慨されて言われたことがある。以前にも似たようなことを書いたが,生への執着よりも「潔し」のほうがよほど大事と,自分自身に関しては根っこのところで思っている。身の程はわかっているつもりだし。なので,余計なこと言っちゃってるかなー,と思いつつ,「結構,いつ,死んでもいいとは思ってるんだよね」と口走ったときの反撃だ。もちろん,明確な自殺願望とかではなく,スティーブ・ジョブズが言った次の意味だ。

私は17の時、こんな言葉をどこかで読みました。「毎日、これが人生最後の日と思って生きなさい。やがて必ず、その通りになる日がくるから」(笑)。それは私にとって印象的でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分に問い掛けてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることを私は本当にやりたいだろうか?」と。その答えが「ノー」である日が続くと、そろそろ何かを変える必要があるとわかります。


H-Yamaguchi.net: Steve Jobsのスピーチ、山口訳


日々,悔いなく生きる。そのために全力を尽くし,結果,いつ死んでも「よく生きた」と悔い残さぬよう心がけている。この辺のニュアンスは伝わらなかったようだ。
 「もちろん,山はキレーだなーと思って見るけど,『感謝』とか『いただいた命』とかは薄いのかもねー」と答えた。「ほんと,イマ風の人ですねぇ」と言われ,「座禅とか行ったらいいですよ。気持ちいーですよー」とも。はあ,むしろ,そっちの方が全然イメージわかねーんだけど。
 だが,確かに私自身のウィークポイントでもある。私の実家に,「お寺さん」が来ることはなかった。仏壇すらないのだ。来ようがない。信心浅いブッディストとして育ったとは思うのだが,何せ,父親も母親もほぼ末っ子なので,彼らの親がまつられることはない。このため,とりわけ宗教行事には縁遠いし,物心がついて以降に育った地区は,近所に公営住宅が多く寺もなかった。地域全体に影響を持つ大きなお寺があるような土地柄ではない。それだけではない。基本的に私は「科学の子」であって,意識も化学反応の結果でしょ,である。偶然とかラッキーに出会うと「カミって,いるねー」などと冗談めかしていうが,はじめからカミ頼みで偶然やラッキーを待つほど世の中をバカにしてはいない。そんな私だから,歴史や伝統のホンモノにはとことん弱い。正直,大きなお寺や歴史を伴った伝統行事は羨ましい。誰も何も疑わず,当たり前のこととして取組む「お祭り」には憧れる。
 どうにも胡散臭いのだ。葬式仏教のことではない。それはいい。そうした需要があるのだし,それはそれで意味があるのだ。ただ,それ以外のこれまでの私の周りでの宗教行事は,「カタチだけ,とりあえずやっとけ」感がたまらなくイヤだ。例えば,何なのだ,あの正月のしめ飾りのプラスチックの鯛は。バカにするな。やるなら,ちゃんとしよーぜ,と言いたいし,そういう欺瞞に満ちた内向きの納得のためだけのポーズがイヤなのだ。結局,こうした憤懣を抱えつつオッサンになった。「ちゃんとした」伝統を受け継ぐ機会の無いまま。
 それ故に,手を合わせることを日常としている,身につけている方にはとことん,弱い。ほぼ尊敬と言っても差し支えないだろう。私がそういうキチンとしていることを,身につけていないためだ。だから,お願いだから,決して信心浅いところを見せないでほしい。徹頭徹尾,隙の無いように。私をがっかりさせないでほしい。ぞんざいなところを見せないでほしい。ちゃあんと宗教のある暮らしを抜かり無く,していて欲しい。私はそちらではないのだから。
 今日,近所のお寺の前を通ると,「花まつり 正午から 甘茶あります」との張り紙。お釈迦さんの誕生のイベントくらいは知っているが,次第やどんなプログラムが用意されているものなのか,さっぱりわからない。母方のお寺ではあるのだけど,普段は全く,関係ない。多少,位の高いお坊さんらしいとの話は聞いたことがあるが,ホントかウソかもわからない。まぁ,葬式があるとクルマがあふれるのを見て感心するくらいだ。檀家多そう,って。臨済宗の寺なので座禅のことも言われたばかりだし,花まつりを覗いてみよっか,と思った。食わず嫌いはいけない。
 正午を15分過ぎて到着。午前11時30分頃にお寺の前を通ったときは,寺の中には7〜8台のクルマが停まっていただけで,とくに何の動きも無かった。それが,何も変わらない!!!あのー,檀家の人はカンケーないんすか?花まつりの参加者って,いないんすか?そんでもって,扉は閉まったままで普段と何も変わらないんですが,何かやってますよウェルカム!って要素はなくていいんすか?あのー,用意された甘茶をふるまうんだと思うんですけど,この全然,人を寄せ付けない雰囲気の中で,「甘茶,飲ませてください」って言ったら,オマエ誰?何しに来た?とか言いませんか?わーわーわー,と寺の門で立ち止まっている内に,グルグルしてきた。
 やっぱり帰ろう。あかん。お呼びじゃない。
 結局,このイベントの機会を通しても「お寺さん」とお近づきになることはなかった。いろんな疑問は解けぬままだ。お祭りはどんなことをやったのだろうか,甘茶はどんな味だったのだろうか。わからないことだらけだから,これ以上,興味・感心のわきようがない。
 まぁ,いいやと思いながら,コーヒーをすすることにする。ああ,うめぇ。