民主主義と国民投票/住民投票と調子狂い


 今週,新聞記事で法政大学 杉田教授の発言が目を引いた。

朝日「政態拝見」 2007年(平成19年)5月22日(火) 根本清樹(解説委員)


民主主義 再考
 主権者の自覚 取りもどす


 東京都内で20日開かれた公開討論会は,ヒントの一端を与えてくれた。
 市民グループ国民投票住民投票情報室」が主催し,衆院憲法調査特別委員長の中山太郎氏をはじめ,与野党を代表する論客が勢ぞろいした。
 国民投票の対象を憲法改正以外の重要な課題にまで広げるのかどうか。与党と民主党の対立点が再び論じられた。
(略)
 こうしたやりとりに,パネリストで政治学者の杉田敦・法政大教授が,もっともな疑問を投げかけた。
 「間接民主主義を担う国会議員が,直接民主主義をそんなに導入したいというのはおかしい。方向が逆だ」
 国民からの声が「澎湃として」わき起こって,それを受けて直接投票が実施されるというのが,本来ではないか−−。
 杉田氏はこうも述べた。
 「私たち国民は権力者だ。そういう恐ろしい面が,民主主義にはある」
 権力は上から降ってくる。私たちはついそう考えがちだし,現実もおおむねそうだろう。
 ところが,権力は下からも立ち上がっていく。民主主義からすれば,私たちこそ主権者であり,したがって権力者たらざるをえない。


 これを読んで,私はまっ先に,「日比谷焼打事件」とそれがその後の日本を大きく変えるきっかけとなったことを指摘した司馬遼太郎の次の文章を思い出した。以下,長いが引用する(削りようがないのだ)。

 要するに日露戦争の勝利が,日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。
 なにしろ,調子狂いはすでに日露戦争の末期,ポーツマスで日露両代表が講話について条件を話しあっていたときからはじまっていた。講話において,ロシアは強気だった。日本に戦争継続の能力が尽きようとしているのを知っていたし,内部に“革命”という最大の敵をかかえているものの,物量の面では戦争を長期化させて日本軍を自滅させることも,不可能ではなかった。弱点は日本側にあったが,代表の小村寿太郎はそれを見せず,ぎりぎりの条件で講和を結んだ。
 ここに大群衆が登場する。
 江戸期に,一揆はあったが,しかし政府批判という,いわば観念をかかげて任意に集まった大群衆としては,講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかったろうか。
 調子狂いは,ここからはじまった。大群衆の叫びは,平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ,戦争を継続せよ,と叫んだ。「国民新聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついに日比谷公園でひらかれた全国大会は,参集する者三万といわれた。かれらは暴徒化し,警察署二,交番二一九,教会十三,民家五三を焼き,一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざるをえなくなったほどであった。
 私は,この大会と暴動こそ,むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に−−たとえば参謀本部に−−蓄電されて,以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。
 むろん,戦争の実装を明かさなかった政府の秘密主義にも原因はある。また煽るのみで,真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあった。当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば,以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい。


p.43〜44「この国のかたち 一」司馬遼太郎

 いわば,主権者としての住民の権力も暴走するのだ,というあたり前の事実をも,冷静に見つめるべきなのだろう。そして,そのために,権力は互いに監視し,牽制し,ときとして緊張する関係が必要とされる。
 直接民主制と代議制は,権力の相互関係としてとらえ直すことはできないか。議会議員がその特権的地位を占有したいがために,住民参加に意欲的では無いとは一昔前によくいわれたところであるが,調子狂いを起こした権力を歯止めをかける装置として機能することを期待できないか。
 国民/市民は,権力者ではないフリをし,ときとして弱者を装い,おもねり,ねだることをしてはこなかったか。そうだとすれば,民主主義の学校としての地方自治が,主権者として住民による自治も自主・自立も,育ちにくくしたのはそこに原因があるのではないか。
 私たちは,いま,何かに煽られて,真実を知らされず,踊らされてはいないか。この日比谷公園での100年前の事件から,どれほど進歩したのだろうか。



この国のかたち〈1〉 (文春文庫)

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