「子どもを溺愛してこそ親」という妙な幻想


 昨日,職場のスタッフが来客との何気ない会話で,振込め詐欺被害にあった話しを聞かされた。来客が言うには,涙ながらに話しをしてきたんもんだから無いお金をかき集め,用立てて振込んだところ,気づいた翌日にはもう引き落とされて一切連絡がつかなかったとのことだった。何気ない世間話の一つで出たので,詳細や真偽のほどはわからない。ただ,こうした親子関係,子どものためならどこまでも!の親の振る舞いが社会を歪めてやしないだろうか。いや,少し視点を変えよう。子どものためなら親はどこまでも注力すべき,との「親」像をあるべきと共通認識にしてやいないか。
 別なスタッフとこのことについて話した。事件を起こした子どもの親(たいていは老境にある)のもとにカメラや取材陣がつどい,執拗に詫びと感想を求める。別人格だし,親にそこまでの責任はない。にも関わらず,そこに関心が向くのは,親はいつまでも子どもを溺愛する存在だ,という誤った共通認識があるからだろう。
 「子どもを独立させてこそ親」。これがあるべき「親」像じゃないのか。