実は,日本ではフェースブックは「来ない」かも,と思う理由。


 「来るゾ,来るゾ」と言われて久しいフェースブックmixi超えや,mixiそのものを買収しちゃうんじゃね?とも言われるほどの「来るゾ,来るゾ」なのだけど,アーリーアダプターの人たちを見ていると,しっかり既に組み込んでいる人たちと,やってみたけど,全然わかんねーよ,と言う人たちに2分されてしまっているようだ。そういうお前はどうなんだ,と言われれば,一応,アカウントは持ってますが?という程度。フェースブックが生活の一部です,なんてことには全然なってない。
 今月15日から公開の映画『ソーシャル・ネットワーク』を題材に,次の記事があった。

 有意義で幸せな人生は、孤独から逃れた先にあるわけではない。ワイルダーが半世紀前に学生たちに語り掛けたように、アメリカみたいに大きくて自由で何の邪魔もない国に暮らしていると、孤独は避けようがない。

 私たちはむしろ、孤独の「使い方」を身に付けなければならない。ワイルダーの素晴らしい表現を借りれば「孤独を、豊かで有益な独りに変えようとするアメリカ人の戦い」だ。映画の登場人物が互いにうまく付き合えないのは、自分との付き合いができていないからであり、本当の自分を知らないからでもある。

 映画を見た後にフェースブックにログインすると(どんなときもログインせずにいられない)、これまでと少し違う感覚が生じるかもしれない。ひとつには、だらだらとフェースブックを使うのは良くないと思えてくる。かつてないほど騒々しく厳しい世の中で、クリック1つで数十人、数百人の友人とつながれば、「有益な独り」を築くことは難しくなるばかりだ。


フェースブックを作った男 | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト


 フェースブックと「新興企業」として引き合いに出されるグーグル(グーグルにとっては迷惑な話だと思うが)の大きな違いは,グーグルは「孤独なんて屁っちゃらの屁。そんなことにかまっているより,世界を整理しつくしたいんだ」と思ってる。そういう技術オリエンテッドな会社で,「有益な独り」・バンザイ!孤独・ウェルカム!で,出会いも別れもオープンでフリーが信条だ。フェースブックは,「孤独?だったら,つながんなきゃ」であって,つながってないことを問題にしないと成り立たない。

 しかし映画を見た後の最大の変化は、フェースブックが痛ましいものに見えてくることだ。現代の孤独への対抗策として始まったフェースブックが、私たち自身の孤独との戦いの記録のように思える。
(略)
 絶えず誰かとつながっていても私たちを本当に苦しめる孤独は癒やせないが、それでも私たちはつながっていようとする。人生のルールを見つけようとし、どうやって大人になればいいのかを知ろうとする。自分がザッカーバーグと同じ罠にはまらないようにと願いながら。


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 日本とは,個人が成熟していると言わないが,成熟した大人文化を持つ国である。茶道も,華道も,香道も,書道も,民舞も,民謡も,長唄も,三味線も,太鼓も,義太夫も,詩吟も,短歌も,俳句もある。個人の自我の形成が十分に発達することはなく,うつろい揺らぎ,はかない,そんな日本の大人にはこれらの文化がある。孤独になりそうになっても,依るべき文化にはたくさん恵まれたこの国において,孤独をだしに商売されても,「つながりマニア」の数以上には広がりはみせないだろうと私は思う。
 他人や社会には無関心・無頓着でも,世間や世の中には格別,過敏な日本人に,「つながりましょう,そうしましょう」とお手手つないでを呼びかけても,難しいと思うのだ。