旅をする「時期」が来たり,来てしまったり,ということ


 何気なく見た日曜の新聞の書評欄に目をとめた。

 学生時代は旅とは無縁だったが、旅好きの妻の影響で、結婚していきなり世界一周したことで旅にはまる。


自分を探さない旅 吉田友和さん - 加来由子 - 著者に会いたい | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト


現在,35歳の吉田さんは,会社員から旅行作家になったしまったのだそうだ。あらら,そうなんですね。私が,旅行作家になりたかったり,憧れているわけじゃない。そうではなく,気がつくと私自身に旅が組み込まれているような日々になってしまったな,と思うのだ。
 もっとも,この書評記事だけではなく,

 私は、何となく「旅運」というものがあると思うんです。
 街を歩いていて、目的地はどっちだろうと地図を開いた途端に、現地の知らない人が寄ってきて「私はガイドをしているんだけれど、今日は休みだから、行きたいところがあれば連れて行くわよ」と話しかけられたり。
 カフェでお茶を飲んでいると、前の席のおばさんが「これ、おいしいから食べなさい」とお菓子をくれたり。


第1回 人には決まった量の「旅運」がある | ナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC) 日本版公式サイト


作家・角田光代のインタビューだ。彼女は旅先で得る「ラッキー」を旅運と称している。そういうものもあるのかもしれない(私はそれってどうでしょう?と思うけどね)。
 私がイメージする「旅運」とは,旅をする,移動すること機会を得てしまう運のことだ。持って生まれた旅をする(してしまう)運。人生のある時期に旅をしなくとも,後年,旅を繰り返すような時期が来てしまうようなこと。「旅」期とでも言おうか。
 私自身,そんな「旅」期にあるような気もするし,最近の旅をしたことそのものを,ここに書いておいた方がイイのだろうな,とあらためてそう思う。