だれか,頭のいい人


 「じゃあさ,これについて自分ならどう思うわけよ」の問いに,

 「いや,それはさ,だれか,頭のいい人が考えるんでさ」という言い訳じみた責任逃れ,当事者ではない振りをしての思考停止で,話しが進まないことは,誰しも経験する小粒の嫌な思い出として記憶の一つ二つ,又,最近のあの時,と思いあたることがあるのではないだろうか。

 やり込める必要も無ければ,もともとが他愛も無い話しだと,問いつめる必要も無いわけで,少なくとも自分ではない,どこかにいる,だれか,頭のいい人の存在を信じる目の前の人の夢を壊してはいけないとも思ってしまう。

 こうした他力本願(もともとの意味ではなく世間に流通する意味)を捨てることで,案外,世の中を変えるのではないか,と思うが,いかがだろう。