健康を守るという社会生活の基本,村上春樹と山口瞳


村上春樹は「ダイエットを取入れている生き方」について,こう言う。

結局のところ,僕らのようにどこにも属していない人間は,自分のことはとにかく一から十まで自分で護るしかないわけだし,そしてそのためには,それがダイエットであるにせよ,フィジカル・ワークアウトであるにせよ,自分の身体をある程度きちんと把握して,方向性を定めて自己管理していくしかない。そしてそこには一つの固有のシステムなり哲学なりが必要とされることになる。もちろんその方法なり哲学なりが,普遍的に他人に当てはまるかどうかはまたべつの問題だが。


p.67「うずまき猫のみつけかた」村上春樹

なぜか。それは村上が「タフさ」を要求される日々を過ごして来たからに他ならない。つまり,


 僕は学校を出て以来どこの組織にも属すことなく一人でこつこつと生きてきたわけだけれど,その二十年ちょっとの間に身をもって学んだ事実が一つだけある。それは「個人と組織が喧嘩をしたら,まず間違いなく組織の方が勝つ」ということだ。これはあまり心温まる結論とはいえないけれど,しょうがない,間違いのない事実です。個人が組織に勝てるほど世の中は甘くない。たしかに一時的には個人が組織に対して勝利を収めたように見えることもある。しかし長いスパンをとって見てみれば,必ず最後には組織が勝利を収めている。


p.67「うずまき猫のみつけかた」村上春樹

統制のとれた「上意下達」の組織,いやむしろ指揮命令系統のいい加減なだらしない組織ほど始末に負えないし,対個人をいじめる。そういう組織のダメっぷりが刃を向けてくるから,危なくってしようがない。当たりが悪けりゃ,個人には致命傷になるからだ。ちょうど,歩行者対クルマのような関係か。だからこそ,


ときどきふと「一人で生きていくというのは,どうせ負けるための過程に過ぎないのではないか」と思うこともある。でも,それでもやはり僕らは「いやはや疲れるなあ」と思いながらも,孤軍奮闘していかなくてはならない。何故なら,個人が個人として生きていくこと,そしてその存在基盤を世界に指し示すこと,それが小説を書くことの意味だと僕は思っているからだ。そしてそのような姿勢を貫くためには人間はなるべくなら身体を健康に強く保持しておいた方がいい(おかないよりはずっといい),と僕は思っている。もちろんこれはあくまでひとつの限定された考え方に過ぎないわけですが。


p.67〜68「うずまき猫のみつけかた」村上春樹

「それが小説を書くことの意味だ」。村上がここまでてらいもなく素直に小説を書くことについて語っているのを私は知らない。川合隼雄との対談では,ずいぶんとしおらしく相手してんな,と思うが,このくだりでの素直さは特筆ものだ。
 それはそうと,書くことを生活の中心に,書き続けるための生活として,それを形づくるための健康であり,世間いや世界と向き合うための健康を村上は語っている。


 一方,山口瞳は,健康を他人の目を意識して,次のとおり語る。


 礼儀作法とは何か。もう一度,振り出しにもどって考えてみるときに,私には,どうしても「他人に迷惑をかけない」という一条が浮かびあがってくる。
「他人に迷惑をかけない」というときに,いろいろの事態が考えられるが,これをつきつめてゆけば,あるいは,その最大なるものは「健康」ではないかと思われる。健康であることは,自分のためであり,他人のためである。
 何月何日に誰某と食事をする約束をしたとする。ところが前日に友人と会って,ついつい飲みすぎてしまった。あたまはぼんやりしている。顔色は冴えない。
「いやあ,すみません。これこれこうで,今夜は一滴も飲めません。酒を見るのも厭だ。食い物を見るだけで吐き気がする」
 こんなことを言ったとしたら,これほど不作法なことはない。健康に留意するということは,他人との交際において不可欠なものである。(私がそういう人間だというのではない)


p.14「礼儀作法入門」山口瞳

 村上にしろ,山口にしろ,健康を必携のツールのように語る。生きていくためのツールとして。生き抜くためのツールとして。


うずまき猫のみつけかた―村上朝日堂ジャーナル

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礼儀作法入門 (新潮文庫)

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