「よし,いっしょにメシでも食おうや」てか


 先日,何気なく聞いていたラジオで「共食」という言葉を聞いた。

ニホンザルでは、食物を前にすると劣位なサルが必ず遠慮して、優位なサルから視線を外す。相手を見つめることが威嚇の意となるからである。優劣順位は群れ内でサルたちが共存するために、食物をめぐる競合が表面化させないように進化させてきた行動文法であると言える。

 ところが、ゴリラやチンパンジーなどの人間に近い類人猿では、劣位者が優位者を見つめることがよくある。見つめられると優位なゴリラやチンパンジーは、食物や採食場所を相手に譲るのである。なぜ、ニホンザルとは正反対のことが起こるのだろうか。それは、類人猿がトラブルの解決手段として第3者との同盟や仲裁を重んじているからである。ゴリラがけんかをすると、それがたとえ優位なオスどうしのけんかであってもメスや子どもが仲裁に入る。チンパンジーでは各自の力量ではなく、複数の個体間の連合が個体の社会的地位を作る。しかも、同盟関係は変化しやすいので、常に確かめることが必要になる。優位なゴリラやチンパンジーが食物を前に抑制するのは、集団に滞在し続けるために他者の支配ではなく協力が必要だと感じているからに他ならない。人間も食物を社会交渉の手段として多様な食事の場を演出している。その起源を類人猿の食と社会生活に探ってみようと思う。


人類の進化と共食の起源
山極寿一(京都大学大学院理学研究科)


親が子に食べ物を与えるのは,哺乳類は乳を与えるところから始まるし,捕らえた獲物を子どもに分け与えるのは肉食獣もやる。「いっしょに食べる」ということだ。つまり,時間と場所と料理を共有することがどうやら,鍵のようだ。

動物と比較して、人間の食の文化を特徴づけることはなにかと考えてたどり着いたのが、「人間は料理をする動物である」、「人間は共食をする動物である」という二つのテーゼです。共食とは「共に食べる」ということであって、「共食い」と読まれたら困るのですが。
(略)
それにたいして、世界中どの社会でも、人間の食事は共食が原則となっています。もちろん、旅先の食事や、単身生活をしていて一人で食べることはいくらでもあります。しかし、食事は一人だけで食べるものではなく、他の人と一緒に食べるものだというのが、世界の民族に共通しているのです。その、普遍的な共食集団は家族です。
(略)
わたしの知るかぎりでは、どこでも家族が最小単位の共食集団としての役割を担っているようです。それは、家族が食物分配の基本的単位であることをしめします。
(略)
人類の祖先が狩猟をするようになったことに、食物分配と、それにともなう共食がはじまったのだと思われます。狩猟が男性の仕事とされることは世界の民族に共通します。初期の人類が狩人になったとき、男性がとった獲物を独り占めにせず、肉を持続的な性関係を結んだ特定の女性と、そのあいだに生まれた子供に分配するようになった、それが家族の起源と考えられるのです。
 共食のさい、限りある食べ物を共食するとき、強い者が独り占めにしないように、食物を分配するルールができます。この食物分配のルールがもとになって、食事における「ふるまいかた」の規範が成立します。それが発展して食事作法となります。食物分配が食事作法の起源であると、わたしは考えています。


国立民族学博物館|退職記念講演会
2003年3月19日開催
石毛直道館長 退官記念講演会


なるほど,共食が廃ることで家族関係,コミュニケーションが貧しくなると言えそうだ。また,便利さを追求した結果の弧食が淋しさや憤懣やるかたなさを生んでいる事実もあろう。
 いま,働く現場での起きている分断は「同じ釜の飯」がつくった仲間意識を決定的に欠いている今の社会の断片を,共食という言葉があらわしている。そんな気がしてならない。