手仕事ができない不安社会


 小中学校,高校の教員とオフで話をする機会がある。その際,中学校の教員をしている一人が,「『dash 村』に憧れているんだよね」と言う。確かに,視聴率も高いであろうし,ムラの様子をモダンに,そして「カメラ目線」でわかり易く見せることに支持率も高いことだろう。しかし,いいオッサンが,しかもインテリ職に就くものが憧れる「dash 村」とは何だろうか。それは,ローテクだが流されることの無く確実に存在し続ける技への憧憬であり,仕事の地に足の着いた様をカッコよく思うことから来ているのだと思う。そして,それを持たぬ自分との対比で。
 「彼女を守る51の方法—都会で地震が起こった日」という本が話題になったことを思い出す。防災知識をマニアックに説くのではなく,「彼女を守る」というカレシとしてのカッコよくありたい自分としての必要な知識を得たいという気持ちが起因しているのだろう。実際,内閣府は同書について「「大切な人を守る」という現在の防災対策のテーマそのものと言えるでしょう」と言っている。
 こうしたカッコよさのカタチとは,裏返せば,いま,前の世代までが当たり前にやってきた手仕事を,いざというときに何もできない自分という存在を認識した「よるべきものの無さ」という不安であり,できない自分のカッコワルさを認識したということなのだ。このまま,できない自分でいいのだろうか。できないオレたちの集合である今の社会は大丈夫なのだろうか,という莫とした危うさが重なり「不安社会」をつくっているのだろう(だから,逆に「女が強い」のは,飯を炊き,茶碗を洗い,掃除洗濯をし,家業を実務としてこなしているが故の強さだ)。
 では,どうすれば,いいか。大人はサービスを買う量を減らすことだ。GNPを減らすことになるが,自分でできそうなことから一つずつトライすることだ。ピザ屋に電話する前に自分で焼け。簡易なピザでも結構上手いぞ。脱線ついでだ,トーストの耳を切り,サンドイッチ用になったパンを丸棒でペッタンコにし,とろけるチーズとサラミとピーマンとケッチャップを乗せトースターで焼く。インチキピザだが十分美味い。それから,少し遠回りもしてみることだ。そうして不便を増やせ。金で解決する量を減らせ。
 子どもは,キャンプに行け。高校生なら,毎日でなくたっていいから自分で弁当を作らせるべきだろう。


 手仕事というやたらリアルなものに実感を見出してしまうが故の話だが,生涯現役であることを志向すれば,こうした不安とは少し距離を置けるのかもしれない。dankogaiも,こう言っていることだし。

俺がコードを諦めない理由はもう一つあって、「いざというときに自分しかそこにいない」、口を出しても間に合わない状況で手足を出せるかということがある。たとえ自分がディフェンダーでも、たまたま敵のゴール前に自分がいたら、その時の俺がやるべきことはパスをまわすことじゃないはずだ。

別にエースでありつづける必要はない。しかしコードを諦めた者は、弾避け(ダンヨケ?タマヨケ!)にすらならないのだ。そこに流れ弾が飛んでくる可能性が少しでもある以上、弾避け程度には役立つ技量は保持しておきたい。

だから、俺は今日もコードを書く。コーダーを理解するにはそれしかやり方を知らないから。


404 Blog Not Found:コードに入らずばコーダーを得ず


彼女を守る51の方法―都会で地震が起こった日

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