「学校とは試験会場」の割り切りが求められるご時世

「英語の授業、大ッキライ!」を読んだ。

「だってさ、だってさ、私、英語やっていないから、英語がわからないんだよ。英語やっている子やお姉ちゃんがいる子はわかるんだけど、私、テストをしても、×ばっかなんだよ。先生に『なんて言っているんですか?』って聞いても英語でしか答えてくれないし。これじゃ、わかんないよ。英語の授業、大ッキライ! いちばんキライ!」

と泣き出されて、あ〜あ、不安的中かよ。ったくな〜。

ヒリヒリしてくるほどに子どもの表情が浮かんでくる。

いや、子どもに差がつくのは仕方ないんだけどね。なんていうか、差がつくのを前提として、強行しているのが、どうなんだろうと思う。

このまま、小学校の英語教育必修化がすすめば、娘のような「英語、大ッキライ」が全国に広まると思われ。ガキ向け英語塾がガッポリですよと思われ。ディズニーのCDが売れると思われ。あ〜〜、イヤな渡世だねぇw。


 私は,義務教育とくに小学生でならうことなんてのは,クルマの免許でなくてはいけないと思う。自動車学校にさえいけば,誰でも習得できる。てな具合に。これは,信念の問題と思われる。「だれでも,やりさえすれば,できる」と思い,時として飽きるほど反復の結果により身につけさせるのだ!との信念,そうした「勉強とは」「教育とは」の根っこの考え方が,学校で何をどこまでどのように教えるかの行動につながるのだ。
 もう一つ,言える。いまの公教育の先生達のほとんどが塾通いの経験者だということだ。既に彼らは,塾との共存を前提にした思考だ。