学芸会,そこに愛はあるのか


 何度か書いたことがあるのだが,教育に関わっているとその延長で来賓として小中学校の催しにご案内をいただく。大した面ではないのはもとより承知の上だが,折角の来賓席を埋めるお手伝いをするのも仕事のうち,と思うので,ありがたく出かけてゆく。こうした機会でもないとベストな位置で観覧もできないので感謝している。
 今日,ご案内をいただいていた学芸会があったので,出かけて来た。ギリギリの時間に会場入りしたので既に会場は暗幕もあって暗がりになっていた。いそいそと演目が進む。たいてい,朝一は新一年生の成長っぷりのご披露の機会。幕が開くと同時にキラキラの笑顔がこぼれる。「ワァーっ」という高揚感が伝わってくるよ。この低学年の時間帯は,家族一同での参加となるので熱気がある。
 いくつかの演目が進む。演目の違いは学校のカラーが出るし,担任の力量も出る。まあ,いいじゃない。巡り合わせだよ。あの先生にうちの子も見て欲しかったわ。わかるけどね,そのifも。ただね,いい教育をしたから,いい教育を受けたから,才能豊かな人物になるわけじゃないよ。才能は天賦のものさ。それが開花するかは運。教育は本人が必要と思ったときに身につくものだよ。だから,教育の質なんてさ,モゴモゴ。いや,初等教育は大事だよ,それと中等教育と高等教育への国の投資もね。ダメだよ,バカ礼賛は。おバカを愛でることとバカに雷同することは違うからね。
 ついつい,学校になんて来てしまうと教育なんて考えてしまう。勉強だけが人生じゃないけど,人生は日々勉強なんだよ。あー,余計なこと言っちまった。
 話しを学芸会に戻す。学校の公開イベントは父母,兄弟姉妹,祖父母,その他親戚一同の暇な方が集まる。子どものためだからね,みんな来るよね。そうか?ビデオカメラの三脚と,この一瞬をとられえるゼの望遠一眼の長く伸びたレンズにかけるエネルギーこそ子どもへの愛だろ,って?ちげーよ,と言ってみる。それは子どもや孫を愛でてる,可愛いものへのカワイガリのエネルギーの発露であって,自分がしたいからしているだけなの。だって子どもだって「見に来て」って言ってるから,それに応えることって愛じゃないわけ?うん,違うね。そうした要求のトレードオフが愛なわけないじゃない。愛は非対称なものだよ。それに非報酬なものなんだ。見に来てくれてありがとう,と言わせるため,言われて嬉しい自分のためじゃないんだ。じゃあ,学芸会を見に行くのは愛は無いわけ!と言われそうだから,答えておくよ,学芸会に行って演じている子どもに,感謝することなんだ,ありがとうって,それが学芸会に行っての愛ってもんだよ。