ますはありません。算数の問題の古式ゆかしさはどうにかならんか。

 仕事がら,小中学校に出向くことが多い(何せ学校評議員なんて仰せつかる身だ)。以前,学校で,算数の授業を覗かせてもらったことがある。懐かしいな,と思った反面,これは今時どーよ,とも思った。たとえば,「ます」だ。

1lますがあります。 下の水のかさを分数で答えましょう。


 ますはありません。少なくとも,小学生の暮らしの中には。まず,「ます」そのものの説明が必要だ。それ抜きだと,授業が終わるまで「ますって何よ?」だ。算数の問題の中の世界にだけ,「ます」が大手を振って歩いている。おかしいだろう。その数量の把握の概念を文章問題として出すにあたり,生活の中にない物体「ます」に頼らなくてはならない必然性はない。
 習うべきは「ます」ではない。問題作成のクリエイティブが問われていやしないか。意味不明の物体「ます」を登場させることでかえって理解を遠ざけていることに想像力をめぐらせるべきだろう。「ます」がはじめて問題にデビューした際には,生活実感にもとずく算数理解として有効だったに違いない。だが,いまの子ども達の暮らしの中に,「ます」はないのだ。いや,教える側の暮らしにだって,「ます」はない。「ねぇ,あなた,『ます』をとって」。いったい,どんな夫婦だ。

 
 サラリーマンいや前例踏襲の官僚主義の悪弊とまでいうと言い過ぎになるか。でも,たかが「ます」ではないと思うぞ。