「自立とは依存によって裏づけられている」


 いま,続けざまに河合隼雄を読んでいる。もう7冊目なので「どうなっちゃうんだ俺」という具合なのだが,そこからインスパイアされる部分があった。たまたま,琴線に触れるようなそういう時代の断片に生きているということで,お前が勝手に電波を受信していると言われればそれまでだし,こじつけとも言われそうだが,甘受する。
 前置きが長くなったが,国と地方の関係とは,新・地方自治法の施行により,それまでの「指揮・監督」の関係から「対等・協力」関係へと変わったわけであるが,浮かびあがったのが,「自己決定権」と自治責任,すなわち自主・自立である。地方にいる我々は,当然ながら(これまでも)自主的に考え(やれる範囲において)実行してきた。さまざまな工夫やテクニックを施した血と涙の話しが全国にあった。そこで希求されたのが「自立」である。あー,もっと自分たちでこれを実現できたら,と。

「自立」ということは,人々の心を惹きつける標語として,長い間その地位を保つ続けているようである。


p.94 −自立とは依存によって裏づけられている− 「こころの処方箋」 河合隼雄


そう,まさに今,われわれ地方にいる者が羨望のまなざしで「自立」に焦がれている。

しかし,どのような有難い標語でも,それが人気と共に一人歩きをはじめると,不都合なことも生じてくると思われる。


p.94 −自立とは依存によって裏づけられている− 「こころの処方箋」 河合隼雄


むむ,河合先生が注意を促している。それは,何かといえば,

自立ということを依存と反対である,と単純に考え,依存をなくしてゆくことによって自立を達成しようとするのは,間違ったやり方である。


p.95 −自立とは依存によって裏づけられている− 「こころの処方箋」 河合隼雄


おお。確かに我々は相も変わらず国に依存している。中央の意志一つで地域の存亡がかかってしまうちっぽけな存在である。日々,メディアに載るのは「弱い者いじめを止めろ!」であるとか「地方を切り捨てるな!」である。こうした現状だからこそ,中央依存を排して「自立した分権型社会の構築」を目指してきたのであるが,河合先生は間違っているとおっしゃる。

自立と言っても,それは依存のないことを意味しない。(略)自立ということは,依存を排除することではなく,必要な依存を受けいれ,自分がどれほど依存しているかを自覚し,感謝していることではなかろうか。依存を排して自立を急ぐ人は,自立ではなく孤立になってしまう。


p.96 −自立とは依存によって裏づけられている− 「こころの処方箋」 河合隼雄


なるほど,確かにわれわれは自立を急ぐあまり,いたずらに国・中央との対立をあおり,本来の「対等・協力」の関係の構築に十分に力を注いで来なかったのではないか。何が地域の課題であり,それは中央政府にとっても解決すべき課題と認識される時,両者の協力によって進めていくという当たり前の関係をつくるために,どれほど心砕いてきただろうか。必要な対話をどれだけ費やしただろうか。「孤立」に突き進んでいやしないか。
 中央集権型社会の復活を!と言っているわけではないことはご理解いただけるかと思うが,さりとて,一朝一夕に分権型社会が到来するという脳天気さもない。分権型社会には「強い個人」を家庭からつくる社会でなくてはならず,オカミ=母系型社会のぬくぬくとしたわがままも不平不満も,ときには小遣いをせびることも許容してくれるような「依存」から自立することは,日本人にとって容易なことではないと想像される。
 まず,「3割自治」と自嘲した現状はなんら変わらず,交付税は減る一方であり,公債負担比率は重くなるばかりのいまの「依存」状況を,「自分」である地域の住民が「自覚」すること,その上で,どう自立するか,を模索する−そんな成長過程にあると思うのだが,いかがだろうか。
 心理学やカウンセリングの話しで地方自治を語るなよ,バーカ。と言われれば,はい,どーも,スミマセンである。



こころの処方箋 (新潮文庫)

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