「正しい」は,正しくない


 「あなたは論理的だ」。あたぼうよ,ラララ科学の子である。20代は「納得がいかない!」を背中にしょって生きてきたのだ。上司に向って「俺ごときをなぜ,納得させられない」と息巻いた。はぁ,まったくやなガキだね。豆腐の角に頭ぶつけて死んでしまえ,だね。
 しかしながら,この年になってもまだ言われる。

河合 ぼくがずるさと言っているのは,もう少し違う言い方をすると,人間の思想とか,政治的立場とか,そういうものを論理的整合性だけで守ろうとするのはもう終わりだ,というのがぼくの考え方なのです。人間はすごく矛盾しているんだから,いかなる矛盾を自分が抱えているかということを基礎に据えてものを言っていく,それは外見的に見るとやっぱりずるいわけですね。
 ところが,湾岸戦争での日本の行動を非難するアメリカ人の場合は,矛盾を許容せずにくるでしょう。そうすると,絶対に不戦憲法が悪いことになるわけです。ただ,不戦憲法の論理でいうと,アメリカは絶対に悪いのですね。そのときに日本流だと,「まあ,どっちでもええやないか」ということで一応すましてしまう。そして,戦争に使う金で別のことをすればよい,というふうになってくる。こちらの方がいいわけでしょう。
 ただ,そういうずるさの哲学を英語で説明しようとすると,どんなに難しいか。


p.74〜75 「村上春樹河合隼雄に会いにいく」 河合隼雄村上春樹


 村上春樹河合隼雄のもとを訪ねてのこの対談は,1995年11月に行われた。この湾岸戦争のくだりや当時の自民党幹事長・小沢一郎の悩みなどは,いまの20代だと伝わらない空気感だと思う。この「ずるい」と言われたこと,クウェートが感謝の広告記事に日本が対象となっていなかったことが「日本」の頸城になって尾を引いている。
 こうした「日本」というのは,じつは個々の日本人にも当てはまり,「まあ,どっちでもええやないか」と言えず,「白黒つけりゃいいんだろ!」になってしまって,そこに僕らの悩みもあるのだ。

河合 ぼくは「あなたの言っていることは正しい,そのとおりだろうけども,人間は正しいことばかりして生きておれない。ぼくは残念ながら,その正しいことができない」と。その人がまちがっているとはけっして言わない。人間としてできるよい方法を考えだしてゆこうと言うと,その人は納得されるのですね。ところが,そのときに「そんなばかな!」なんて責めるようなことを言うと,その人はものすごい自己嫌悪に陥ることになってしまいます。(略)
 しかし,治るばかりが能じゃないんですよ。そうでしょう,生きることが大事なんだから。そこがひとつ大事なところです。


p.161〜162 「村上春樹河合隼雄に会いにいく」 河合隼雄村上春樹


 じゃあ,ずるくてもいいのか,汚くてもいいのか,納得がいかなくてもいいのか。いいや,よくない。しかし,ずるくて,汚くて,納得がいかないのが人間であり,人間社会なのだ。だから,河合隼雄の言うように共感を示しながらも「ぼくは残念ながら」と続けなくちゃあ,ならない。

村上 ぼくは日本の社会を見て思うのは,痛みというか,苦痛のない正しさは意味のない正しさだと言うことです。たとえば,フランスの核実験にみんな反対する。たしかに言っていることは正しいのですが,だれも痛みをひきうけていないですね。あれはたしかにムーヴメントしては文句のつけようも正しいのですが,だれも世界のしくみに対して最終的な痛みを負っていないという面に関しては,正しくないと思うのです。


p.207 「村上春樹河合隼雄に会いにいく」 河合隼雄村上春樹


 そう,そんな相手に共感を示すことなんて苦しい。痛い。そんなことをしない方がよほど楽だ。決別することの方がラクチンに決まっている。でも,それを伴わない「正しさ」なんて,全然,正しくないんだ。
 愛だろ,愛。うん,たぶん,そうだ。



村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)