存在価値はあるのか,いいや,存在そのものに価値があるのだ


 やや禅問答めくが,存在価値とは何か。そのことに悩むことはあるのだと思う。貢献できているのか,つまらない話ししかできないと悲観したり,一人前の扱いを受けていないと嘆いたり。そんなとき,「あなたにとって,あなたがたにとって,自分とは,自分の存在価値とは」と問うたり,煩悶したり。昨晩から,そんなことを考えてみた。
 自分という存在の価値を問う必要などないのだ。存在していること,そのことに価値があるのだ。これが結論である。
 存在からではなく価値の方から考えてみる。誰かにとってその人の存在価値とは,この誰かの変数によって決まる。つまり,誰か次第である。しかし,その人そのものの価値を見てみれば,そんなもの,もとより無限であって,それのアウトプットであったり,フィルタリングを経ることで,目に見える量が有限なだけである。もともと,その人自体の価値とは,存在していることそのものを指すのだ。
 存在していることに価値を置くならば,興味・関心を否応なく払うのであって,存在の固有性の認識,すなわち,かけがえのなさを気づくとき,その対人関係には全力を払うのではないだろうか。もちろん,興奮し過ぎたり,平常心を失う力の発揮ではなく,出せる力でもって関係をつくる。
 こんなことを考えてみた。