その成功への希求も,「救われたい」の願いなんじゃね。


 今朝の新聞に,研究者がフェイスブック上にまとめた「宗教者災害救援ネットワーク」の紹介があった。各宗教団体の被災地での活動をまとめたものだ。


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宗教者災害救援ネットワーク



また,グーグルマップ上には「宗教者災害救援マップ」も開設された。


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宗教者災害救援マップ


これを見て飛びつく人はむしろ少ないだろうと私は思う。むしろ宗教への忌避感から,ネタとして興味本位に見ることはあっても,信心する人への「あ〜,ハマっちゃってるのね」と反応することの方が多いだろう。これが日本人の大方の宗教への接し方だと思う。
 手を合わせ祈り,ただただ「救われたい」と願う,このことは,宗教と距離を置く大部分の日本人の日常とかけ離れていることなのだろうか?私は多くの日本人が願い,求めていることは,宗教の祈りと同様に感じられるのだ。それは何か。「成功したい」と願っている日常のことだ。あなたの成功のイメージは何だろう。「他人に認められたい」,「みんなに賞賛されたい」,「スゴイと言われたい」,「頑張っていると評価されたい」,「尊敬されたい」,「褒めてもらいたい」,…。才能や努力を通じて得た地位や収入,そして仕事の成果,もたらせられる「成功」。この成功を求めること,すなわち,自己承認欲求だったり,自己肯定感だったり,これらを求めることとは,現状の満たされなさを埋めようとすることだ。満たされない今の自分から抜け出たい,と強く願うことだ。それを僕らは動機と呼んでいる。
 これって,手を合わせ己と向き合って祈ることと同じだろ,と思う。現状から,「救われた」満足できる将来を求めての行為なわけだ。つまり,僕ら大勢の日本人は,「もっともっと」と成功を求める宗派の門人って言ってもいいんじゃね,と思うよ。いつまでたっても足るを知ることの無い連中だとも,ね。