読書感想文「2020年代のまちづくり: 震災復興から地方創生へ、オリンピックからアフターコロナへ」 宇野常寛 (編集), 井上岳一 (著), 加藤優一 (著), & 18 その他

 なぜ、サブカル批評、現代文化論の宇野は、政治や地域社会を論ずる本を作り続けるのか。
 この本は、2011年の東日本大震災、2020年前後の新型コロナウィルス感染症の社会経済情勢の受け、東京や地方の「まちづくり」を考えたものだ。もっとも、下敷きとして1995年の阪神淡路大震災地下鉄サリン事件があり、さらに言えば、1985年に豊田商事会長刺殺事件、日本航空123便墜落事故、G5のプラザ合意があった。この間、モノを作り、モノを売る商売が変容していった。カタチあるモノを生み出すことや、価値ある商品を送り届けることがどんどん変わっていった。
 その要因の一つは、情報通信革命である。これにより、モノの価値は、すべて比較対照が可能になり、フラット化した。購入時によほど特別な体験を提供できない限り百貨店だろうが量販店だろうが、画面上であろうが、Aという商品はAである。もう一つは、金融である。モノを作り出せたり、コトを起こしたりできる者よりも、金がある者、金を調達できる者が強者であるという関係の優位性が明白になってしまった。札束がモノを言う新自由主義だ。デフレ下にあって、この2つがさらなる物価とりわけ賃金と地価を押し下げることになった。
 この本は、マネーに負けたまちづくりが語られる。地方創生もインバウンドもドーピングでしかなかったと言う。しかし、今、円安、インフレ・物価上昇というトレンドが顕在化する中、ようやく長い長い価値の閉塞が終わりかけている。実は少子高齢化は問題ではなかったし、地方分権制度改革もそのことは手段でも目的でもなかった。この30年、イシューの設定が違っていたのだ。金融と財政の両方をシュリンクさせていたのだ。もっとも財政の緊縮主義は止まっていないのだが。
 モノやサービスの地産比率を上げることだ。世界中から安値で集めた原料・材料や部品をアセンブリをしているだけじゃダメなのだ。その土地、その場所で作られたストーリーの供給するのだ。情報通信の波に溺れずマネーに対抗するのだ。


読書感想文「世界は経営でできている」岩尾 俊兵 (著)

 岩尾は言う「なぜお前は自分自身をマネジメントできないのか」。そればかりではない。「なぜお前たちは、いつまでも手段と目的をとっ散らかっているのか」と呆れているのだ。
 しかしだ。あなたがいま求めているものは、目的ではなく手段ではないのか?と問われ、「そうかも、手段かも」と思ってみたところで、では本来の目的って?深掘りした目的は見つかるの?との疑問が沸いてくるのではないか。んー、酒が飲みたいのは、酔っぱらいたいからなのか?酔って騒ぎたいのか?酔って騒ぐ仲間と一体感を感じたいのか?酔って騒げる仲間との距離感を再確認したいのか?酔って騒げる仲間たちと騒ぐ自分がいられる場所があることを確認して安心したいのか?昼間の嫌なこと、煩わしいことから少しの時間でも距離を置きたいのか?酒を飲んだところで、ひと時の酩酊気分で紛れるのか?酔いから覚めた後、飲まなきゃよかったと後悔することにならないか?後悔するなら、後悔することが予想されるなら、そもそもなぜ酒を飲むのだ?いや、後悔するけど飲みたいって何なのだ?それどころか、飲んでしまった後、もう酒は止めると口にするのは何回目なのだ?ところで、酒は飲みたいのか?飲酒は経営でできているのか。アレ?えーっと、酒は手段だったっけ。
 明石家さんまが「幸せって 何だっけ 何だっけ~♪」と言ってからもうすぐ40年になる。この問いに答えを出せないまま、日本人は時間を過ごした。その程度に僕らは凡百である。誰もが自分の人生をマネジメントできないのは、目的を明確化できるほど明晰ではなく、自己を顧みて合目的的に行動できることほど理性的ではないからだ。それほどに煩悩に支配されているし、強烈な意志を持ち得ていないのだ。
 目移りするように、アレも食いたいコレも食いたいとそのときの食欲のまま食うのではなく、本当に美味いものを不自由なく食いたいときに食えるように、金を稼ぎ禁欲的に日々を過ごすことなのだ。それが正しさだ。ホントの目的?究極の目的?この問いの重さに耐えられるだろうか。正しさに窒息したりしないだろうか。


読書感想文「事務に踊る人々」阿部 公彦 (著)

 事務とは、手続きであり、プロトコルであり、フォーマットであり、プロセスであり、契約であり、説明責任であり、会計であり、ブロックチェーンである。要は、「正しさ」を求める一連の行為である。
 この一連の行為において我々は「正常」でなければならず、まどろんだり、モヤがかかっていたりしてはいけない。パッキリキッカリ明晰でなければならない。こうした事務的であること=官僚的であることとは、正しさがもたらす恩恵を受ける便益のためであって、普遍性のある行為だ。元来、求められてきたのだ。
 しかし、事務があることが当たり前な時代になって、事務は嫌われることになる。形式的であり、曖昧さが許されず、合目的的一辺倒なのだ。言わば、堅苦しいのだ、事務とは。人間はグウタラで出鱈目でいい加減でだらしなく、テケトーなのに。
 人間とは、人間味のある愛すべき存在である一方、仕事をする主体である。仕事の成果とは計量的である。報酬は貨幣だからだ。
 これまで、あくまで「処理」されるものでしかなかった事務そのものがテーマとなったことに、フフッと思ったりする人は案外、多いかもしれない。


読書感想文「地雷グリコ」青崎 有吾 (著)

 痛快・天空人ゲームバトルである。
 ゲームの要素とは、遊戯性と射幸性、そして全てのプレイヤーを制するルールである。なので勝負を分けるのは、ルールのハックである。とは言えである。できるのか?易々と勝ち負けを分ける勘所を読み切り、対戦相手の手と判断を見定め、その緊張の場において向かい合うのだ。計算であり思考力である。神々のレベルかよ。少なくとも知恵のレベルは天空人だ。
 登場するもともとのゲームは、グリコ、神経衰弱、ジャンケン、だるまさんがころんだ、トランプだ。当然、そのままのルールじゃない。ルールを付加し、複雑にし、ちょっとやそっとのゲームじゃなくしている。その知恵よ。
 読者は揺蕩うとハイレベルのルールメイキングのストーリーに身を委ねて、ただただ熱いゲームバトルを眺めるといい。漫画のセリフなしのコマ割りで登場人物がバチバチする様が目に浮かぶはずだ。そして勝負の決着シーンは清々しい。
 高校生の対戦モノとして十分に楽しい。そうだ、一言だけ加えておこう各ゲームのルールを覚えようとしちゃいけない。覚えきれないよ。


読書感想文「この世にたやすい仕事はない」津村 記久子 (著)

 仕事と居場所と感情の話しだ。
 働くことに伴って少なからず、感情のやり取りが発生する。それは達成感や感謝を向けられることといった正の面もあるし、ただただ疲弊したり夢中になってしまうあまり前後が見えなくなる負の面もある。
 もっとも、煩わしいだけの人間関係もあるし、事業所として軌道に乗らず廃業してしまうことでその職場が無くなることだってある。
 主人公の得た5つの職場で過ごした時間は、社会復帰のためのモラトリアムでありリスタート前に自分を正視するための時間であった。ただただ失業保険切れ後の身の処し方をネガティブに窓口で吐露しかできないところからスタートしたが、妙な経験や手応え、人間関係を築いていった。
 人生というのは、瓢簞から駒が出たり、人間万事塞翁が馬だったりする。わかるようでいてわからないものだ。だからこそ、恐ろしさや摩訶不思議さなファンタジーを主人公とともにトレースすることで、我々が拘泥している目の前の優柔不断で判断停止しているものから、リアルで確かさのあるものへと向かっていけ、ということなのだろう。


読書感想文「チーム・オルタナティブの冒険」宇野 常寛 (著)

 子ども向けのテレビ特撮ヒーロー番組の放送時間は、なぜ30分なのか。
 子どもの集中力の持続時間の長さでもあるように思うが、実は違うだろう。一話で子どもをテレビの前に釘付けさせ続ける制作者側の力量の問題でもあるし、実は、視聴者である子どもは保護者たちの都合で案外と忙しく、画面の前に釘付けにさせてもらえる定常的な時間は30分程度なのだ。
 この一話30分間の世界で捨象されてしまった話しの前提や日常のあれやこれやのディテールを大人相手に全開にした一冊だ。よくもまぁ、自意識まみれの主人公を創作したものだ。「できる子」の世界を描くために小説という表現手法と文字情報空間の媒体を使ったからこそ為せるものであり、これが映像だと脱落した者も多かったはずだ。それと同時に「大人をバカにし、新しいことや他人と違うことをやりたがる」という痛いほどの凡庸さを惜しげも無く表現してみせたことは、物語のラストスパートに大きく寄与した。
 SF・特撮空間を通じて自意識やコンプレックスを昇華させるのは、日本だけのお家芸ではなく、一連のマーベルやハリウッド作品にも存在する。この場合の自意識とは、評価の客体である自分を意識することだ。特撮の基礎知識は要求されるが、コミュニケーションそのものの客観視とAI時代のマルチな視点の持ち方について、じわじわと読後感が広がる一冊だ。
 ところで、私には夢がある。宇野とNHK魔改造の夜」の評論をしたいのだ。なぜ、勝つ企業があり、そこがとった戦略と実践を解くのだ。ぜひ。


読書感想文「硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ」酒井 聡平 (著)

 気骨と使命感を帯びた記者の歩みだ。まるで講談ものに出てくる仇討ちの浪人のようではないか。
 物事を「終わったことにしたい」「面倒なことは避けたい」という勢力は確実に存在する。そのことを指摘したり、迂闊に本質を追求すると逆上したり逆襲を受けたりするので注意が必要だ。人生どこで逆恨みされるかわからず、また、どこに落とし穴を掘られているかわからない。くわばらくわばらである。
 戦死者の遺骨収集・帰還が、そのことに人生を傾ける人でなければ成し遂げられない個人の人生を磨滅する取り組みとなってしまっている。未踏峰の登山や人類がたどり着けていない地点への探検じゃないんだ、そんな負担を遺族や遺児に負わせていいわけはない。
 これは市民が自らの手で国家を作っていないことに尽きるのではないか。国家として当たり前に記録を残すことや、国家としての戦いに命を落とした者へ報い、責任を負うことが、どうにもだらしなく、できていないのは、我々が当然に歴史を大事にしたり、国家の担い手として自覚のもと、主権者として政府に要求してこないことが原因じゃないか。「戦争をすることにしたのは僕らじゃないです。関係ないです」と歴史の文脈から語るべきことへ主体性・当事者性が欠けているのではないか。
 謎解きでも陰謀論でもない。市民として「ちゃんとしよーぜ」と語ることである。