10代の子たちは教室でクルマの話をしているだろうか。


 してねーな,多分。ネットで嘲笑や蔑視表現の「ゆとり」と揶揄される今の10代だが,経済と環境に関するまともさがある。その彼らにとって話題とするのは,ケータイとテレビ番組だろうか。
 社会的に求められる要素の大きなものにその時代の若者は大きく反応する。いまは,環境と遵法だろう。環境は言うまでもない。言うまでもないのだが,物心つく前から環境について喧伝されて育った世代というのは想像を超える。決断やアクションの過程の全てにおいて環境を考えるのだろうから,後付けの世代とは比べ物にならない。また,遵法については,大人が真面目にならないといけなくなったという方が適切なのだろうが,かつて,大人になると言えば,ちょいワルどころではなく,悪事をなすこと,悪に関わる事であった。酒を飲む,ばくちを打つ,女遊びに手を出す,こんなわかりやすいことでなくとも「失敬する」と称して小物の悪さや,酒に任せての悪行なども,大人の風景だったろう。いまの若者は酒もタバコもギャンブルも関わりがなく,異性よりも自分愛だ。至近の例で言えば,飲酒運転が大罪化したことも,大人の「悪」が違法化したことの風景といえばよいかと思う。
 環境と遵法が前提となるこの時代,クルマは憧憬となるだろうか。そうとうにムリがある。まして,ステータスシンボルを若い世代が共有してくれるかとなると難しい。地球のリソースを,空間,エネルギーも私有化し,しかも有害物質をまき散らしながら走行するのだから,アウトである。それに誰しも起こしうるヒューマン・エラーの範囲において,その人生を終わらせるだけのトラブルを常時発生しうるのだから,リスクが大き過ぎる。ここまでの存在を若い彼らが無邪気にエモーショナルに選択の対象とするわけがない。
 せめて,走行中はゼロ・エミションにすることなしに忌避すべき存在としてのクルマ,できうる事なら関わりの対象とはしたくないものとしてのクルマでしかない。せいぜい,しょーがないから乗るものだ。
 もはや,ヤングのためのクルマというものの寿命は尽きている。


 かつて,クルマとは自己機能の拡張であった。それは多分,いまもそうなのだが,インターネットや個人化された電話がその役割りを大きく奪いとった。クルマがあれば,いつでもどこへでも出かけていって,ステキな場所に,ステキな人に会いに,気になる人に,気になる人とつながりつくるための機能を果たした。まさに未来増幅装置だった。


 いま,若い彼らの手にあるインターネットとケータイは,人とのつながりを拡張させるには最強のツールであり,遠いどこかに出かけるにも,エンジンを始動させる事無く,いや,クルマを所有・維持しなくとも,目的地までのベストルートを案内し,発券や予約をこなす。そう,公共交通機関を使いこなすのは「善」であることを志向している者に,クルマを売らなくてはいけない時代なのだ。