死なない不幸


 「死ねない不幸」ではない。念のため。もちろん,死ぬ幸福でもない。
 さて,「高齢化」社会ではなく,すでに「高齢」社会となって久しいわけだが,ここで起こっていることとは,かつてであれば死んでしまっている方々が,まだまだ現役でいる社会になってしまっているということだ。もちろん,長寿は喜ばしいことだし,祝って然るべきだ。だが,ずーっと同じ世代の方が,イニシアティブを握り続けているという,固定された社会関係があたかも時が止まったかのような光景を映し出している。
 会社組織であれば,定年があるではないか。トップも頻繁に代わっているではないか,と言われるかもしれない。そうだろう。だが,55歳定年制は,現在60歳定年となり,65歳からの年金支給に合わせ再雇用・再任用も常態となってきた。組織の中で何が起こっているのか。組織の中で主力と言われる方の年齢が上がっているのだ。組織の平均年齢も上がっている。組織の中から新しい活力がどうして生まれてこよう。ダイナミックに組織の構成や,組織内での権限が継承されえない固定された関係が続いてしまっていると言えよう。
 家庭ではどうだろう。80歳代,90歳代も珍しい存在では無くなってきた。つまり,ずーっと祖父,祖母が生きている家庭が多い。そして,財産も彼らのままだったりする。家庭での意思決定が彼らに最終決定権が温存されているケースも多いことだろう。何が起きるか。かつてであれば,若い世代が早々に「家督」を継ぎ,家の運営に当たってものが,いつまでも構成員にすぎない。もちろん,個人の趣味として「若づくり」をしていてもいっこうに構わない。なぜなら,いつまでも,子や孫として上下関係の位置で愛でられる対象で居続けられるからだ。
 これでいいのか。
 これが,高齢社会だ,と一瞬,納得させられそうになるが,そうじゃないだろう。一つは「体」の問題だ。特に女性の場合,20代後半からめきめきと落ちる生殖能力の発揮が,対社会との関係のために極端に遅れてしまう。上の世代が居続けることで親になることを猶予されているのだから,その地位にあるほうが安全安心だからだ。
 もう一つは,気構えのある若い世代が少なくなってしまうことだ。失って知ることの経験が,後回しになったまま,高齢になってゆく。かつては,否が応でもお鉢がまわってきて役目を受けなくてはならなくて,受けて立つことであらゆることに立ち向かう姿勢が養われたが,そうした機会は減った。
 西欧での高齢化は時間をかけて進んだ。日本は駆け足で高齢化した。西欧ではこの間に,自立を促す仕組みが整ったのに対し,日本ではパラサイト・シングルが話題になった。死ぬことで生じていた継承が起きにくいのであれば,独立自尊を進めていくしかなかろう。それはいまの家族や組織において,所与とされるものに疑問を持ち,個々の能力発揮のためのあるべき関係性について,対話を増やしていくことから始めなくてはならないだろう。
 死なないことが前提の社会について,議論がもっとあってよいのだと思う。弱者ではない高齢者が多い社会とは何か,そのことで生じる関係の変化とは何か,だ。