好きではないがやればできてしまうことを,「好きになれ」と言うか,「実は好きなはずだと思いこめ」と言うか。


 どっちでもない。
 いや,それじゃ実もふたもないわけだが。


 時間のことを考えていた。没入して作業をこなしていると,それをやる前に面倒くさいな,であるとか,いつまでかかるんだろうか,と思っていたにも関わらず,あっさりと,しかもスッキリするほど見込んだ時間前に終わり,予想もしない手応えと満足感を覚えたことの経験は,社会人としての生活を送れば,年に何回かは味わうこととして記憶にあることだろう。
 でも,そんな作業が好きか?と問われれば当然ながら,「仕事だから」であり「好きか」などと考える対象ですらなかったわけだから,キョトンとせざるを得ない。でも,スッキリしたでしょ?そりゃ,まぁ。手応えあったでしょ?えぇ,まぁ,終わったわけだし。満足?もう,見なくてももいいわけだからね。じゃあ,好きでしょ?ちゃうわあああ!!
 と,ここで自分の中で,問いかけが芽生える。好きになっちゃう方がいいんちゃうやろか?いや,別に全く意識してなかったヤツに告られたわけじゃないし。でもなぁ,そりゃ,他に好きなことはあるよ。でも,それをどこまでつらぬけているねん,今のオレ。とも思うわけね。好きなことにどれほどの才能があるの?好きなことで突き抜けることができるのオレ?そもそも,その「好き」にどれほどの根性があって言ってんの?オレ。とも。つまり,今の「好き」への信頼が揺らぐ。あ〜,大して,好きちゃうんやないの?,と。
 こう思っていると,大概,その「大して好きでやっているわけでもない『仕事』」で評価されちゃったりする。デキるねぇ。とか。あぁ,こうやってこれを続けていくことも案外,道なのかもなぁー,つか,好きでもないけど続けていくことで,これを語れるようになっちゃうことで大事なのかもー,って。結局,それそのものを直接的な「好き」ではない(だって「仕事」なんだもん),と思いつつも,こうしてやればできてしまうということの中に,好きを見出しちゃったりすることも大人の生き方なんじゃないか,と思ったりするわけだ。


 で,続く。続く。


そして,気がつきゃ,それっぽいポジショントークをしていたりするわけだ。「それでいいのか,それでいいのだ」と口の中をモゴモゴさせたりする。

やはり自分の世の中でしたいこと、なすべきことはこちらではないかという思いが日々強まっていました。もちろん思い上がりだろうと思いますし、会社に籍を置きながらでもHPも本も書けるのだからそうすればいいではないか、と自分に言い聞かせ続けてきたのですが、結局会社を離れて自分の思う通りにやってみたいという思いを押しとどめることができませんでした。


有機化学美術館・分館:退職のご挨拶 - livedoor Blog(ブログ)


を読んで頭にあった。新たな道に踏み出されたことに敬意と賛辞を送りたい。この文の前に「特に本の形で「有機化学美術館」を世に送り出して以来様々な反響をいただき」とある。さとう氏にとっての「好き」が実感を伴って認識できたのが,この反響だったろう。だが,大概の人には,この好きの実感がない。違う表現をしよう。自分の「好き」への信用がおけない。自分は自分の「好き」をどこまで好きなのか,わからない。本当は好きではないのでは無いか。現に,好きに没入できていないではないか,と。
 では,一体,「好き」とは何なのか。お手軽な「好き」指数やら,「貴方の好きはどのくらい?Yes/No 好き判断!」ではないだろう。うつろう感情ではないし,オモシロソー,でもないのだとしたら?

自らの「向き不向き」と向き合い,自らの志向性を強く意識し(それが戦略性そのもの),「好きを貫く」ことこそが競争力を生むと私は考える。


p.26 ウェブ時代をゆく 梅田望夫


私もここまで,id:umedamochioのこのセリフを意識してここまで書いた。私の問題意識は,この「好きを貫く」ことの疑問や否定などではない。使い回されてしまう「好きを貫く」よりも,その前提を意識せよ,と言いたい。つまり,「自らの志向性を強く意識」するということ無しに「好き」を語っても意味がない。お前は何を目指すのか?との問いを自分にどれほど問いかけているか,が「好き」の実存,「好き」を信頼させて浮かびあがらせるための必須用件となる。
 「好き」には,具体的なイメージと戦略が求められる,という話である。そして,それらは俗っぽかったり生々しかったりして,みんなあまり語ってはくれないのだが。


ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

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