悪いが,トラックに神輿が乗っかっていても気分は乗らない


 先日,地域の大きな神社のお祭りがあり,家の前の道路にも御神輿の行列が通った。スピーカーからの囃子と鳴りものが響き,警備会社と飾られた子どもの保護者が同行しての賑やかしだった。
 せっかくなので,写真を撮ってみた。



 ご覧のとおり「いや,だから,何なのでしょう?」である。祭りを模した何かである。とりあえず,やることになっているから,ウエがやれと言っているから,の何かである。わからない正体不明の得体の知れない何かが行われたのだ。スッキリとしない疑問を残しながら。
 そうだ,これは自然災害に近い。理不尽な被害を辺り一面に広げ,寂寥感を漂わせるのが自然災害とすると,理不尽な人的被害を心理的な傷跡として残していくのが,この祭りのような何かである。祭りは違う。人々の気持ちを揺さぶり,自然と心と体が動き出してしまう,そんな魅力が催しとしてカタチになって高揚感と一体感になったものが祭りである。
 イミテーションかどうかなんてすぐにわかる。食堂の見本は,イミテーションとして役割にのみ作られているがゆえに,永久に見本である。見本としてチャーミングさはあっても,決して食べられることがないのと同様である。
 違う「何か」としてイミテーションを盛り上げようとするならば,イミテーションであることを競ったらイイ。